だららん感想文 『シン・ゴジラ』の巻


 映画『シン・ゴジラ』を観たので感想文を書きました。 喫茶店で珈琲を飲みながらだらだら話すのを聞くような感じでお読みください。 1回観た印象だけで、それも観ている最中は頭の中がぐるぐるしていましたから、見逃しや勘違いもあるかと思いますが、そうした面も含めての率直な感想です。

 予備知識は控えめにして映画に臨みました。 ただ予告篇は見ていましたし、「完成した映画でファンタジーなのはゴジラだけ」という佐藤善宏プロデューサーの発言と、そのインタビュー記事の解説にあった「現在の日本に巨大な生物が出現したらどうなるかを描いた、リアルシミュレーション映画としての側面を持っている」という部分が頭に残っていました。 それゆえに、今回の映画は徹底してリアルな世界にゴジラという架空の存在が出現したらどうなるか、という視点の作品だと思い込んでいたのですが、これは事前情報の誤読でした。 淡々としてシリアスで深刻な作品を予想していたので、見始めた最初はちょっと混乱しました。
 冒頭からの展開を眺めて違和感を感じているうちに、矢口が突然「巨大な生物が」という話を始めるその唐突さに「えっ?」と驚き、頭の中に居座っていた「リアル」という言葉がどこかへ消し飛んで、その後に展開される絶妙かつテンポのいい台詞のやり取りに、「これのどこがリアルな世界なのか!? アレッ、これはコメディなのか?」と戸惑った挙句に理解したのは、単にこれは戯画化された世界に戯画化された人間たちが登場する、娯楽映画としてはむしろ当り前のスタイルの作品だということでした。 「リアル」とは、政府の人間それぞれが事態に対していかなる手順や手続きでどのように対処するのか、それぞれの行動とその相互関係についての「リアルシミュレーション」だったのですね。 自分の勘違いに気付いて、やっと映画に入っていくことができました。

 誤解を解決して座り直したところで困ったのが「どアップ」責め。 IMAXの巨大スクリーンいっぱいに通話機をぐわっと被せるように押し出してきたのには参りました。 その後も人物の巨大顔が巨大スクリーンにばんばんばんばんばんばん出てきて、「すいません、もう少し下がってください」と何度も心の中でお願いしておりました。 私が子供の頃によく見ていた空想特撮テレビ映画でも、画面いっぱいの顔のアップなどがやたら出てくる回があったのを思いだしましたが、あれは昭和40年代の解像度が低くて画面もごく小さいテレビ受像器で見た際の効果を考えてのことでしょう。 岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』にも三船敏郎のどアップはありますが、ここぞという勘所でだけ使っています。 もちろん、『シン・ゴジラ』でのどアップも深い考えがあって使い分けているのだとは思いますし、むしろ私が書いたような違和感を充分に理解して狙ったのかもしれませんが、どんな意図があるにせよ、とにかく鬱陶しくて鬱陶しくて。 2度と劇場で見たくない理由のひとつがこれです。 昭和時代で成長が止まった私の感覚からすると、巨大スクリーンの画面設計としては失敗のように思えますが、もしかしたら今の劇場映画はこれ位が普通なのでしょうか。

 さて、「おやっ」と思ったのは、怪物が背中を見せながら、河を進んでくるシーン。 これは印象的でした。 凄いことが起きているのに、映画の語り口が実に淡々としている。 巨大怪物が河を進んで、押しのけられた水や船が道路に溢れ、人々が走って逃げている。 これを見て、いやでも思い出すのが東日本大震災津波のテレビ中継です。 まさにテレビの前の視聴者であった私が感じた不思議な恐ろしさが蘇りました。 安全なテレビ前に座って、今まさに起きている信じがたい光景を見ている不思議な距離感と同じ感覚がここにありました。 現実と非現実の境界が曖昧になる瞬間。 『シン・ゴジラ』の特徴は、「市井の人の中にサブ・キャラクターを設定して、その苦難や心情を並行して描く」ようなことをしていない点ですが、それによって生まれる「距離感」が、本作にとってはうまく機能していると思います。

 さて、本作最大の難所、怪獣の顔を初めて拝むシーン。 「目を疑う」とはまさにこういう時に使うためにある言葉なのでしょう。 何が起きているのか何を見ているのか本当に分からなくなりました。 吾妻ひでおのマンガでの妄想的悪夢に出てきそうなそのヘンチクリンな顔。丸い大きな目玉が本当に異様。 リアルな災害シュミレーション、みたいな印象へ傾いてきたところへこれが来たので思考停止に陥りました。 まあ、「悪夢的」というのは狙ったのかもしれませんが、ここでもう、ついていけなくなりました。 ちなみに、映画鑑賞後にこれが「ラブカ」という実在の生物をモチーフにしているらしいと知りました。 ラブカの写真を見るとなるほどと思います。 でもね、「実在の生物をモチーフにしてるからリアル」ではないんですよ。 映画で表現されたものをどう感じるかです。 ヘビ笛みたいに首振りながら出てきたのでもう勘弁してくださいという気分になりました。
 しかしファーストカットはマンガみたいというだけでまだマシでした。 本当の恐怖はその後。 手というか前肢のあたりがうねうねと膨らんで、グロテスクな手がばりばりばりっと……。 この辺りは逆に生物感満載になって物凄く気持ち悪くなってきて、更に口の脇が裂けて赤い赤いスジスジがビローンと……もうこの辺りは何がどうなったのかうまく思い出せません。 もうとにかく気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて。 で、最後にスックと立った姿がまたマンガ的にデフォルメされた悪夢のような感じで、間が抜けてるんだけど体表の色もディティールもこれまた実に気持ち悪い。 グロテスクにユーモアが見え隠れするこの表現スタイルは、私が『シン・ゴジラ』を2度と劇場で見たくない理由のひとつです。
 ところが、色々な人の意見を見ると、こんなのはグロというほどのグロではないらしいのですね。 私より上の世代の方だと、私と同様な感想を持った方もおられましたが、私よりお若い世代の方は全然平気のようです。 これは「どっちが正しい」という問題ではなく、感性の違いでしかないのですから仕方ありません。 私にはこのグロが絶対ダメなのは事実であると同時に、大多数の方にはこんなのはグロではなくたいしたことないのも事実。 お若い方々よ、そういうわけで怪獣映画の未来はあなたがたの感性にお任せします。 幸運を祈ります。
 さて、さんざん文句を並べましたが、その一方でこの「丸い目玉」とその姿の佇まいが放つ独特の雰囲気は評価したいという気持ちもあります。 感情とか心とかそういうものを一切感じさせない、ただ生物が本能でうねうねと前進するその独特の存在感。 これは逆にあの目玉のおかげで良く出ていたと感じます。 更に言えば、というか本当はあまり言いたくないのですが、『ゴジラ』(1954)の上陸時の雰囲気にちょっと通じるところもあります。 生理的グロテスクという点では全くかけ離れた存在ですが。

 怪獣が一旦去った後、瓦礫ばかりの被災地を前に、矢口がひとり合掌するシーン。 ここは、見たその時には「こんなとってつけた描写いらないのでは」と思ったんですが、映画を見終わった後に考えを改めました。 「河を進む巨大怪獣」の話で触れた、「距離感」のようなものがよく出ています。 「遺体がずらりと並んでそこで合掌する」のではなく、瓦礫の山への合掌。 この「距離感」の話はまた後でします。

 さて次。ふたたび巨大な怪獣が上陸します。 やっとこさポスターや予告篇でおなじみの怪獣が登場して、ここはちょっと気分的に上昇します。 とはいえ、これは「別の怪獣が上陸してきた」とは思わないのでしょうか。 怪獣が出てくると同時に、「台詞」で生物が2倍くらいに巨大化していること、姿も大きく変わっていることを「説明」していますから、それで観客は無理やり納得させられます。 しかしこれは実にまずいやり方だと感じました。 台詞で2倍と言われたから、ああそうか、と思うだけで、登場時の映像自体に「2倍」を有無を言わさず納得させる力があるかというと、そうでもない。 こういうところこそ、台詞のリズムと映像のリズムのコンビネーション、映画的リズムでぐいぐいぐいと見せていくべきではないでしょうか。 最初に上陸した時に観客が味わった衝撃と同等かそれ以上の勢いで観客の顔を張り飛ばすような「巨大化と形態変化の驚き」の表現が、ここにこそ欲しかったですね。
 『ゴジラヘドラ』や『エイリアン』など、怪物が変態する「変態映画」の系譜からすれば、小さなチェストバスターが行方不明になった後に巨大な成体エイリアンが出てくる衝撃に似たものを狙ったのかもしれませんが、エイリアンの場合は頭部の雰囲気などを継承していますから、「台詞」で説明されなくても出てきただけで観客に納得させ衝撃を与える力があり、そこが、頭部の印象が著しく変貌している『シン・ゴジラ』との大きな違いだと思います。

 しかし、とてつもなく巨大な生物が静かに悠然と進んでいくイメージは、恐ろしいほどに美しい。 予告篇で抱いた期待感が間違っていなかったことを確認できる時間でもありますが、「逆にこれこそ予告篇などで見ずに、映画館で初めて目の当たりにしたかった」と実に勝手で矛盾したことを思ったりもするのでした。
 私は子どもの頃から、ミニチュアの戦車とぬいぐるみの怪獣が戦うような映画やテレビをたくさん見て育ちました。 私はそうした作品たちがほんとにほんとに大好きです。 しかし、『シン・ゴジラ』で現実感溢れる近代兵器が怪獣に徹底的な攻撃を加える渾身の映像もこれまた実に魅力的です。 どっちが上、ではなく、それぞれにそれぞれの魅力があるという当たり前のことを、今更ながら思います。

 さて、自衛隊の攻撃が殆どゴジラにダメージを与えなかったので、米軍の攻撃が始まります。 この辺りがまた微妙なところで、巨大生物への物理攻撃が効果を発揮すれば、体が裂け体液が流れ出すのは当然です。 されど、やはりここが私にはちょっと生理的に気持ち悪い。 私が子供のころに観た怪獣映画でも、怪獣の体や顔が裂けて体液が流れ出したり、腹に大穴が開いたりといった描写はありました。 でも、当時のぬいぐるみの質感その他の総合的な結果として、デフォルメのかかった表現になっていたせいか、生理的嫌悪は感じませんでした。 しかしこれは時代が変わったということでもあるのでしょう。 今の子供たちは、私が子供の頃にガメラ映画を見たように、この作品を見ているのかもしれません。
 『ウルトラマン』に登場するガヴァドンの如く、手を出さなければあまり動かず暴れもしないように見えるゴジラ。 しかし、手痛い攻撃を受けたことで反撃の牙を剥きます。 紫色に発光し、口が裂け、ビームと火炎で周囲全てを破壊し尽くし焼き尽くすかのような凄絶な光景。 ここはどうしても『風の谷のナウシカ』や『巨神兵東京に現わる』を思い出さざるを得ません。 私は、「過去の映画で見かけたようなシーンを入れてたら減点」とか、「過去にやっていない斬新なことをしてなければ価値がない」とか、そういう考えはありません。 映画の語り口の中で映画の構成要素として効果を挙げ得ているか否かが大事だと考えます。 しかし、ビーム(?)を出し始めた時点で以後どうなるか予想できてしまうのが物足りなかったのも確かでした。 いや、もちろん映像の出来栄えはたいしたものですし、炎との組み合わせ方も実に迫力があって良かったと思いますよ。 映画を見終わって少し時間が経った今にして思えば、映画の序盤から驚かされるようなものを次々に見せられたせいで、過大な期待を抱き過ぎていたのが不満の一因だったのでしょう。 まあ、口が大きく裂けるかのような開き方をするのをグロテスクに感じてしまうあたりも、私がいまひとつ乗り切れなかった理由かもしれません。 あるいは怪獣の腹が開いてビームを放つ別の映画を思い出してしまったせいもあるのでしょうか。
 物足りないと書きましたが、この場面で私の心を捉えた瞬間がありました。 矢口が初めて現場近くでゴジラを目の当たりにするシーンです。特に、地下鉄の入り口で見上げる夜空をゴジラの放ったビームが走るショットは、地上からの視点で周囲には人が大勢いるのでゴジラは見えず、ビームだけが空を走るその凄絶な恐怖に満ちた美しさは臨場感満点でした。 ただ、そうした美しさだけではなく、ほかに何か私の心を揺すったものがこのシーンにはありました。 それは何なのか、というのはこの文章を書く過程でわかってきましたので、以下の話の中で書きます。

 総理大臣の乗ったヘリがゴジラに撃墜されて、ゴジラ対策の実質的な重責が矢口にのしかかってきます。 米国や国連など海外からの干渉で核兵器による攻撃の危機が迫る中、矢口を中心にして、日本自身の力でなんとかゴジラに対処しようと努力する流れが描かれ、ゴジラを凍結する作戦に希望を見い出します。 恐ろしく危険な命懸けの作戦を開始する前に矢口が訓辞をするシーン。 皆が防護のための物々しい装備を身に着けていて、任務の危険さを実感させられる中、矢口の懸命の言葉が続きます。 ここは本当に強く私の心を捉えました。 観客としての私の心が、矢口に寄り添うがごとく一体化していく時間でした。 「過去の映画でよく見かけたようなシーン」であっても、「映画の語り口の中で映画の構成要素として効果を挙げ得ているか否かが大事だ」というまさにそのケースですね。 日本という国家の骨組みを守っている「官に属する人間」が決死の覚悟でゴジラに立ち向かう。 「ニッポン対ゴジラ」とは、「官民力を合わせて国民が一丸となってゴジラと戦う」という意味ではなく、官が国家を守り国民を守る姿を指しているのだと感じる瞬間です。
 そしてこの「官視点」ということで考えると、先に書いた「瓦礫の前での矢口の合掌」は、むしろ的確で鋭いシーンだと納得しました。 矢口の映画での立ち位置は市民の「中」にあるのではなく、また、官の「中」にあっても自衛隊員のように直接市民の遺体に接するわけでもありません。 矢口は官の中にあって官を統率する頂点集団の一人であって、市民や自衛隊員との間には明確な心理的な「距離」があります。 しかも、「距離」があって一人一人の具体的な顔が見えていない存在である市民や自衛隊員(その他、官に属して働く全ての人々も含め)に対して、非常に大きく重い「責任」を背負っている立場でもあるのですね。その絶妙な「距離感」と「責任感」がまさにここに現れていると感じます。
 この距離感に似たものは、ゴジラの出現に逃げ惑う人々や、崩れる建物の中に見える人々、また、ゴジラ攻撃直前に発見される逃げ遅れた人などの表現にも感じられます。 カメラと人々の物理的な距離は遠くないのですが、あくまで映画の語り口は距離感を置いた観察者であって、市民の内面に寄り添ったり、市民の心情を中途半端に描いたりはしていません。 そこを徹底しているのですね。
 そして、その「距離感」の中にあって、ゴジラや市民の様子を様々な報告や通信映像などを通して情報を受け取っていた矢口が、初めて直接ゴジラを目の当たりにし、しかも市民のざわめくすぐそばに立って体感するのが、先に書いた地下鉄入口の矢口のシーンなのでした。 あそこまでの積み重ねがあればこそ、ここが強烈なアクセントになっています。

 いよいよゴジラ凍結のためのヤシオリ作戦の実行ですが、ここでちょっと映画の中盤まで戻って、映画音楽の話をします。 私は、「その映画のために書かれた劇音楽ではなく、過去の映画音楽を使う」という手法そのものは否定しません。 ただ、成功させるのはすごく難しいのではないでしょうか。 中盤から、映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』に使われた聴き覚えのあるリズムが何度か出てきますが、これは正直困惑しました。 この独特のリズムは、私と同じかそれ以上の世代にとっては、ジョン・バリーが音楽を担当した007映画『ロシアより愛をこめて』の有名な曲を思い出させるものであり、エヴァンゲリオンでは明らかにその名曲のパロディのようなニュアンスを込めて書かれた音楽なのでしょう。 エヴァンゲリオンについて殆ど知らない私でさえ、テレビで放映された新劇場版だけは見ていたので、なぜここでこの二重の既視感(既聴感?)を幅広い世代に及ぼしている音楽を、わざわざ持ってきたのか大いに疑問でした。 いや、私にはわからない立派な理由があるんでしょう。 ただ、立派な理由があるか否かは大きな問題ではないんです。 せっかく映画と言う虚構の中に入り込んで物語の情緒に寄り添っていたのに、ジョン・バリーを聴いたとたんにそこから外へ引っ張り出されて、「映画ごっこ」を外側から眺めているような感覚になってしまうのが実に残念でした。 本当にもったいないと感じました。

 ヤシオリ作戦でも、第1段階の作戦開始と同時に聴き覚えのある音楽が鳴り響いて、ここは怒るというより笑ってしまいましたが、やっぱりちょっと惜しい。 これは『宇宙大戦争』のために書かれた映画音楽ですが、確かにこれを選曲した判断というかセンスそのものは実に絶妙で鋭いと思います。 映画の流れでいうと、ここは「対比」効果が存分に発揮されるところで、ここまでの描写で重くのしかかっている雰囲気をちょっと転化させる役割もあります。 新幹線を突っ込ませるという突拍子のない意表を衝いた作戦には、「諧謔」「疾走感」「突撃感」「明るさ」「痛快さ」「開放感」を感じますが、『宇宙大戦争』のM32という音楽はこの要素にぴったりなのですね。
 『宇宙大戦争』は宇宙からの侵略者との戦いを描いた映画ですが、序盤では得体の知れない侵略者の不気味さとそれに対する危機感があるものの、中盤から終盤にかけては、徐々に実態が明らかになる侵略者との全面的な戦争に突入します。 そこには「地球が滅んでしまうかも知れない絶望的な悲壮感」などはあまりなく、終盤では壮烈な総力戦の迫力を楽しむ高揚感に観客は心を任せていけるようになっています。 終盤で使われるこのM32には「突撃ラッパが盛大に吹かれ、皆一斉にシッチャカメッチャカに突っ込んでいく」かのような雰囲気を感じますが、ここには先に書いた「諧謔」「疾走感」「突撃感」「明るさ」「痛快さ」「開放感」が揃っています。
 ですが『シン・ゴジラ』では、列車突撃作戦の前には矢口の訓辞で「日本を守れるかどうか」という悲壮感と、それゆえに漲る決意を強く感じさせており、列車突撃作戦の後には、日本を守れるのか守れないのかというギリギリの凄愴な戦いが展開されます。 それゆえに、列車突撃作戦の音楽においても、「諧謔」「疾走感」「突撃感」「明るさ」「痛快さ」「開放感」だけではなく、どこかにその「重さ」のようなものが音楽の重心として機能して、前後のつながりと流れを作っていくべきではなかったでしょうか。
 まあ、以上の理屈はもちろん家に帰ってから、自分が感じた違和感の原因を解きほぐした結果ですが、とにかく観たその時には、「せっかくの矢口の訓辞のシーンからの情緒の流れの積み重ねが、うまく繋がらなくなってしまった」ということが全てです。
 『シン・ゴジラ』の音楽構成全体からいっても、新幹線突撃作戦は勘所のアクセントになる重要な場所です。 なればこそ、本作のために書き下ろした素晴しい音楽が欲しかったと心底思います。
 本作では他にも伊福部昭の映画音楽が複数個所で使われています。 巨大化したゴジラが上陸するシーンに使われた『キングコング対ゴジラ』でのゴジラの主題は、比較的違和感なく聴くことができたところでしょうか。 このあたりは、逆に音楽そのものから総監督が受けたインスピレーションを、具体的な映像として結実させたのがあのシーンだったのかもしれません。 また、『メカゴジラの逆襲』のゴジラの主題についても、同作でのゴジラは人類の脅威となる対立した存在ではありませんから、そうした意味では音楽の本来のイメージとは違いますが、『ゴジラ』『キングコング対ゴジラ』『メカゴジラの逆襲』と順にゴジラのテーマを使うことで歴史をなぞっているということなのでしょうね。 まあ、意外に違和感は少なくて不思議な効果が出ていました。
 とはいえ、そもそもなぜ「伊福部昭の音楽を使う」のでしょうか。 半世紀以上も前の空想特撮映画のために書かれた映画音楽を使う理由。 先人が生み出した素晴しいものへの敬意を表し、今ゴジラ映画を見る若い世代へ、後の世代へ伝えていくためでしょうか。 先人の音楽を使うことよりも、先人に負けない音楽に挑戦することにこそ真の敬意があるとはいえないでしょうか。 そうしたことによってこそ、先人の仕事も光り輝くのではないでしょうか。 今思えば1984年の『ゴジラ』の音楽は、そうした意味で、渾身の書き下ろしによって統一された実に堂々たる映画音楽でした。

 さて、映画を見た時の印象を中心に書くつもりが脱線し過ぎてしまったので話を戻します。 列車突撃作戦の後、ゴジラのエネルギーを消費させるための航空作戦が始まりますが、ここがちょっと惜しい。 背中から多数のビームを放つゴジラのショットですが、ゴジラ自体のCGIの仕上がりが他のシーンに比べるとかなり落ちる印象を受けました。 ビームを放ちながらゴジラが少し体を動かすショットなどは実にぎこちなく、とても100メートル以上もある巨体には見えません。 ゴジラを表現するCGIの仕上がりについては、正直映画全体でばらつきを感じました。 予告篇などの告知映像に使われたショットは実に完成度が高く、IMAXのスクリーンで改めて観ると本当に見ごたえがありますし、「ついにここまで来たか」という感慨と喜びを強く感じさせるものでした。 それだけに、仕上がりのクオリティのばらつきは残念でしたが、恐らくは時間や予算の制約の結果止むを得ずというところだったのでしょう。

 では次。 「ゴジラの活動を抑え込むために埋める」という作戦は、『ゴジラの逆襲』や『キングコング対ゴジラ』といった作品に先蹤がありますが、ゴジラの周囲の巨大な高層ビルを次々に崩して使うという作戦、まさにこれぞ半世紀前ではなく今だからこそ出来ることですね。 これは実にダイナミックな迫力に満ちた凄絶な光景でした。 再度観てみたいところですが、他のところがきついのでとても劇場へ足を運ぶ気にならないのが残念です。 そして、この抑え込みに成功した後が本作の真骨頂です。
 私が子供のころに観たような特撮映画だったら、「怪獣の体を埋めて横倒しに押さえ込み、口から液体を流し込んで活動を止める」というのはひどく地味でつまらないアイデアに終わったかもしれません。 しかし、本作ではゴジラに設定された途方もない巨大さと、その巨大さを感じさせ得る映像表現があり、それがこのシーンを素晴しいものにしています。 横倒しに埋められてなお、ゴジラの頭部は途方もない高さにあります。 そのゴジラに薬液を注入する車両は、これまた相当に巨大な筈ですが、ゴジラと比べると悲しいほどに小さい。 その小さい車両が懸命にパイプ(?)を伸ばしてゴジラに薬液を注入しようとする姿の健気さには涙が出そうになります。 巨大なゴジラに立ち向かう、小さな小さな人間たち。 この恐ろしく危険な作業に従事する人々の、ただひたすらな姿も胸にくるものがあります。 そして、……そして、活動を抑え込んでいると思えたゴジラが突如として火炎を吐き、注入部隊があっさりとその業火に包まれ飛ばされていくショットには、思わず「うっ…」と体をよじりました。 体の芯というか心の芯に響くような衝撃を受ける強烈なシーンでした。
 この映画がここまで積み上げてきたものが実を結んだ瞬間でした。 注入部隊のひとりひとりが働く姿はきっちりと充分に描写されていて、その人間たちの姿には心動かされるものの、映画はそのひとりひとりに寄り添わず、距離を置いています。 部隊の中にサブキャラクターを配置して、その人物の心のあり方や考え方を浮き上がらせたり、「今度子供が生まれるんだよね」などの台詞を言わせたりとか、そういうことを一切していない、そのことが実に効いています。 また、火炎で部隊がやられるショットはあくまで距離を置いた視点であって、映画の視点は指揮官の位置に近く、ひとりひとりが炎に包まれるなどの「近づいた」描写は一切ないということも見事です。
 この感想文で何度も触れた「距離感」の匙加減が実に素晴しいですね。 先に書いたように、指揮を執っている矢口と、その指揮下で最前線で働く人々との間には心理的・構造的な距離感があります。 しかしその顔の見えないひとりひとりの重い命に対して矢口は大きな責任を背負っていると同時に、日本を救うために作戦を成功させなければならない責任も背負っているその苦しさ、その痛み、その重さ、その全てがここに集約されています。 部隊がやられた直後、衝撃を受けた矢口の反応は、まさに私の反応とシンクロするかの如きもので、そこからすぐに心を立て直して作戦指揮を続行する姿もまた「かくあるべし」としかいいようのないものでした。 「映画の語る情緒の中に入り込んで映画と一体となれる」ことこそ、私が娯楽映画に求める核心なのかもしれません。 『シン・ゴジラ』最高の瞬間がここにありました。

 さて、だいぶ話が長くなりました。 珈琲のおかわりはいかがですか。 えっ、さっさと残りの話をしろ? そうですね。 この後の展開も実に緊迫感というか切迫感があり、ハラハラさせられて実に良かったですよ。 活動停止させられるのか、どうなのか、という語り口も実にお上手でした。 このまま最後まで映画の情緒に寄り添っていけそうな気がしていたのですが、ゴジラが停止した後がもう私にはダメでした。 ゴジラが停止した、作戦が成功した、となれば一瞬ホッとしたすぐその後に、矢口は実行部隊の生存者探索や負傷者救出を気にかけて勢い込んだ言葉を発すると思っていたのですが、それが全くありませんでした。 確かに、火炎でまるごとやられた部隊は「全滅」という報告が入っていましたし、他の部隊についても、矢口が指示を出さずとも当然生存者探索や負傷者救出をやっているのかもしれません。 しかし、ここで重要なのはロジックではなく、「映画の語り口」として、矢口が彼らを懸命に気にかける姿があって欲しかった、いや、必要だったと私は思います。 それがあってこそ、実行部隊全滅の報告を受けた時の矢口の苦悶と素早い気持ちの立て直しの、本当の重さが伝わるのでないでしょうか。
 映画に寄り添っていた私の気持ちは離れていき、「私が大統領であなたが総理」みたいな話をしているシーンあたりになると、もう本当にどうでもよい気分になっていました。 全てが台無しでした。

 

 話は以上で終わりでもいいのですが、これは「だららん感想文」ですから、書き洩らした話題をだらだらと以下少々。

 カヨコ・アン・パタースンというキャラクターを見ていて、その妙な言葉遣いも含めてイライラする感じは私もありました。 ただ、私は「映画で俳優の演技に悪印象を持ったら、その責任は俳優ではなく監督にある」と考えます。 現場で俳優に指示を出し、その演技にOKを出した立場の者に責任があります。 あれはむしろ監督(総監督)の狙いなのでしょう。
 映画の設計上は、日本に核ミサイルを撃ち込もうとする側の人間、つまり「敵側」(?)の人間ですが、日系人でありしかも祖母が広島で被爆していて、内心はむしろ核攻撃を阻止したいという立場にあり、その点では「こちら側」でもあるという葛藤を抱えています。 『キングコングの逆襲』でのマダム・ピラニアを連想するようなキャラクターですね。 そして『シン・ゴジラ』での米国や国連といった存在は、リアリズムの著しく欠けた、かなりデフォルメされた存在であり、まるでマダム・ピラニアの所属する「某国」の如き曖昧なイメージでもあります。 国連決議で日本に核ミサイルを撃ち込むというのはいくらなんでもムチャクチャですし、そうした強い虚構性を与えられた米国を代表する存在としてのパターソンがあのような妙なキャラクターで表現されたのはむしろ必然だったのかもしれません。
 ただ、どのような理由があろうと、私にとってはこの映画に乗れない理由のひとつになってしまったのも確かなのでした。

 最後にゴジラについて。 私が良く観ていた昭和のゴジラシリーズでは、ゴジラは多かれ少なかれ擬人化された側面を持っていました。 いや、擬人化という言葉は誤解を招くかもしれません。 観客の視点で、ゴジラに人間的な感情を虚像として重ね合わせてしまうような映画表現、とでも書いたほうが私のイメージに近いでしょうか。 1954年の最初の『ゴジラ』では、そうした表現はごく少ないものでしたが、ゴジラを殺そうとする終盤で描かれた海中のゴジラの姿は、大人しくてちょっと可愛くて哀しくて、という印象を与えるものでした。 『ゴジラ』では、登場人物たちに「ゴジラが可哀相」などとは一切言わせていませんし、ゴジラを殺すことに反対する山根博士も、その理由はあくまで学術的な見地によるものでした。 しかし、映画の語り口は、ゴジラもまた可哀相なんだと感じさせるもので、登場人物の台詞を借りずにそれを表現していることが素晴しい作品でもありました。
 ゴジラ映画がカラーになってからは、ゴジラは人間のような感情を明確に垣間見せる(少なくとも観ている側はそのように感じる)ようになり、また映画の終幕では死なずに海へ帰るか島へ帰るか、という和やかな着地点が設定されるようになりました。
 そうした私自身の昭和の記憶の中にある、「ちょっと感情移入したくなるゴジラ」と対比すると、『シン・ゴジラ』でのゴジラは、かなり異質なものでした。 初期形態の感想で「感情とか心とかそういうものを一切感じさせない、ただ生物が本能でうねうねと前進するその独特の存在感。」と書きましたが、それは巨大化してからも同様で、暴威を揮っているときですら、「感情よりも本能」という印象を受けました。 ロボット、と書くと違いますが、「本能で自動反応する構造体」のように見える時もありました。 ただ、それでも「哀れ」な存在だと感じました。 いや、「それでも」というより「それだからこそ」哀れなのかもしれません。 不思議なゴジラでした。 ゴジラ映画はこれからどこへ向かうのでしょうか。


【結び】

 私が初めてゴジラ映画を劇場で観たのは、1967年の『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』でした。 暗闇の中に光るカマキラスの眼の妖しさ、クモンガの谷を通る緊迫感など、幼児の私は「映画の描く怖さ」に魅了され、また、カマキラスが卵を襲い、その卵からミニラが生まれてゴジラがそれを助けに現れる、という物語の語り口にも心を奪われました。 そして今改めて観て私の心を強く惹きつけるのは、あの素晴しいラストシーンです。 映画の語り口と音楽の語り口が一体となり、観客である私の心も一体となるあの幸せな時間。 私にとっての素晴しい映画とは、それが面白おかしいコメディであれ、心の底から震え上がる恐怖映画であれ、あるいは他のどんなものであれ、「ああ、面白かったーっ」と笑顔で、充実した満足感で映画館を後に出来る映画です。
 そして私にとっては、『シン・ゴジラ』はそういう映画ではありませんでした。 でも駄作であるとも思いません。 この映画を楽しめる方々には、「良かったですね」と申し上げたい。 そして私は私で、私に喜びを与えてくれる映画を求め続けるだけです。