GODZILLA の綴りを考えたのは誰か ―竹内博さんが残したもの―

 1954年に本多猪四郎監督の『ゴジラ』が公開されてから60年。 今年は節目の年ということで、イベントや出版が目白押しの盛況を呈している。 洋泉社の「別冊映画秘宝 初代ゴジラ研究読本」(2014年8月24日発行)も、そうした中で出てきた読み応えのある一冊だ。 ゴジラ映画、特に初代ゴジラの研究といえば、先駆者にして第一人者の竹内博さんの存在は途方もなく大きかった。 だがその竹内さんもいまやこの世の人ではない。 そうした今の状況で、「初代ゴジラ研究読本」のように新たな研究が世に出ることは大変喜ばしい。 竹内さんの拓いた道を、後に続く者がさらに進んでいく。 先人の作った階段を後に続く者が昇り、さらに上へ続く階段を作る、それこそが竹内さんが望んだことではなかったかと私はしばしば思う。
 ところが、おや、と思ったのが「初代ゴジラ研究読本」の135頁にある、GODZILLAの綴りについての解説。 1955年の Japanese Motion Picture Industry の誌面が紹介され、この海外向けプレスの表記ではすでに GODZILLA の綴りになっている事実が指摘されているが、「誰がどの段階で決定したかは詳細不明。」とある。 そして以下のように締めくくられている。 「なお、竹内博氏は生前GODがついたプロセスを記した本があり、そこには日本でつけられたと書かれている、と知人に語っていたそうだが、本書の調査では発見できなかった。」
 これは少し意外だった。 すでに研究者の間では知られていると思い込んでいた。 そこで、私が多少なりとも知っていることを以下に紹介する。

 竹内博さんは、1998年のトライスター版『GODZILLA』のノヴェライゼーション(スティーヴン・モルスタッド著、石田享訳、ソニーマガジンズ、1998年7月11日発行)に「ゴジラは伝説ではない」というエッセイを寄せており、その中で「ちなみに GODZILLA という洒落た英文スペルは、映画字幕翻訳家の高瀬鎮夫のアイディアである」と明言している。
 では、竹内さんはどうしてそれを知ったのか。
 おそらくその出典は、1974年に高瀬鎮夫が東京新聞夕刊に連載していた「スーパーまん談 字幕づくり奮戦記」というエッセイだろう。 3月8日付夕刊に掲載された連載第23回「ゴジラで三度かせぐ」には、当時の経緯が書かれている。 高瀬鎮夫は、輸出用の日本映画のために和文英訳をする仕事もしていたが、その中で『ゴジラ』(1954)の脚本を英訳する仕事が回ってきたのだという。 以下にエッセイの後半部分を引用する。 文中に「タテヨコ」とあるのは、縦書きの日本語を横書きの英語にする、つまり「和文英訳」の意味だ。

 (前略)とにかく「ゴジラ」の英文シナリオは無事に完成した。 英語でメシを食っているけど、自分で完全な英文が書けるなどとはユメにも思っていないので、タテヨコの時は、いつも多少は話のわかりそうな外人さんに手伝ってもらう事にしている。
 このころはアメリカ駐軍用の新聞「星条旗」(Stars and Stripes)の芸能記者アル・リケツがそれだった。 東宝にもサムライは多いので、この「ゴジラ」をそのまま Gojira としては、いかにもネウチがない、そこで知恵をしぼったあげく、 Gozilla となった。 イカす。
 アルが当惑したように言った。 「東宝ではこれが当たったら当然、続編を作るだろうな。そうすると、これは固有名詞でなく、一応は the Gozilla 定冠詞をつけるべきではないかな」。 先見の明ありと言うべきである。
 映画「ゴジラ」が完成して、その英文スーパーもアルと組んでやった。 映画の終わりで、水中に酸素不足でアエなくなったゴジラくんに向かって、志村タカシさんが言う。
 「ゴジラは決してこれで終わりではない。(もしこの映画が当たったら)きっと第2、第3のゴジラが出て来るだろう」
 アルと私は思わず肩をたたき合って笑いこけた。 はたしてアメリカでも大ヒット。 ついにこれを再編集してレイモンド(アイアンサイド)バア氏主演のアメリカ「ゴジラ」が日本に逆輸入された。そのスーパーもやらされた。 「ゴジラ」で3度かせいだ男――それは私です。

 以上、文中の綴りが Godzilla ではなく Gozilla になっているのが微妙なところだが、何しろ20年後に書かれたエッセイであり、 Godzilla を意味して書かれたのだと思う。 日本国内封切時の英字紙での広告では Gojilla となっているが、高瀬らが台本の英訳や完成映画のスーパーインポーズ用の英訳をする過程で Godzilla に固まっていったのではないだろうか。
 竹内博さんはなぜこれを皆に教えずにこの世を去ってしまったのか、と不思議に思われる方もいるのではないだろうか。 しかしそんなことはない。 実は、これはみんなが竹内さんからすでに教えてもらっていることだった。
 私がこの記事の事を知ることができたのは、ファンタスティックコレクションNo.5「特撮映像の巨星 ゴジラ」(朝日ソノラマ 1978年5月1日発行)に掲載された「ゴジラ映画主要参考文献目録」に「ゴジラで三度かせぐ/高瀬鎮夫」として掲載紙名と日付がきちんと書かれていたからだ。 「特撮映像の巨星 ゴジラ」の企画構成は酒井敏夫と浅野悦子。 酒井敏夫とは言うまでもなく竹内博さんの筆名だ。 竹内さんにとって、これは既に公開ずみの情報で、皆が知っているはずのことだった。
 ファンコレの「ゴジラ」は、いわばゴジラ映画をきちんと評価する出版活動のさきがけであり、ゴジラ映画を見据える視点の基礎、あるいは出発点となったムックだ。 だが、その後ゴジラに関する図書やムックは数え切れないほど出版されてきた。 それゆえ、「ファンコレは懐かしいけど、研究の進んだ今では特に見返すには及ばない」という意識があるのではないか。 しかし今改めてその頁を繰ってみると、限られた紙数の制約の下、実に端正にまとめられた充実の内容に驚かされる。
 正直に言えば私自身、ファンコレの「ゴジラ」に凝縮された豊かな内容を使いこなせていなかった。 刊行当時まだ中学生だった私は、「ゴジラ映画主要参考文献目録」の頁を見ても、そこに列記されている文献に当たろうという発想は起きず、ただ字面を眺めて感心していただけだった。 ファンコレ刊行の20年後に竹内さんが書いた「ゴジラは伝説ではない」で高瀬鎮夫の名を見た時も、すぐにはあの文献目録に結びつかなかった。 更に何年も経過してから、原稿執筆のために参考文献目録の頁を久しぶりに開いて、ようやく気付いたという体たらくだ。
 ファンコレの「ゴジラ」はもちろん竹内博さんひとりの功績ではなく、「取材スタッフ」や「資料提供・協力」として名前が挙げられている錚々たる顔ぶれの諸先輩方の熱意の結晶だ。 だが竹内さんの存在がこの完成度を生み出したのは間違いない。 つくづく感じるのは、自分が釈迦のてのひらで踊っている猿だということだ。今改めてファンコレの頁をめくってみると、そのことを痛感する。 竹内さんは、映画の脚本や宣伝資料、新聞記事に至るまで「紙の資料」を徹底的に探索し調査するという姿勢を貫くと共に、映画を作った監督、脚本家、製作者、美術家ら大勢の人々にも直接取材した。 この両輪をきちんとこなして相互に反映させることこそ「研究」の本義だということを身をもって示していた。

 このブログ記事の最初で、「先人の作った階段を後に続く者が昇り、さらに上へ続く階段を作る」という話を書いた。 竹内さん亡き今、生きている者が成すべきことは、「先人の作った階段」を埋もれさせないだけではなく、その階段作りの姿勢そのものに学び、新たな階段を作ることではないだろうか。