平山亨さんのこと

 平山亨さんに初めてお会いしたのは、私がまだ中学生だった昭和53年でした。とある縁があって同じ年頃の友人たちと一緒にお目にかかる機会があり、東映本社の喫茶室で色々なお話を聞かせていただいて、そのお人柄に魅了されてしまいました。子供の頃から夢中になって見ていた『悪魔くん』や『キャプテンウルトラ』、その他多くの東映の子供番組を手掛けられてきた方だというのは知っていたものの、その頃はまだ「宇宙船」のようなファン向けの雑誌なども存在しておらず、詳しい予備知識は何もないままに足を運んだのですが、身にまとった陽性な雰囲気と、忘れられない魅力的な笑顔、そして熱のこもった話術に引き込まれました。まさに太陽のような人でした。
 その当時、平山さんは東映テレビ事業部テレビ企画営業第二部長というお立場で、担当作品としては『スパイダーマン』や『宇宙からのメッセージ 銀河大戦』が放映されており、大変お忙しかったはずです。今思い返すとファンの中学生がのこのこと会社へ遊びに行くなど迷惑以外の何物でもなかったのですが、色々と親切にしてくださいました。大泉撮影所の東映映像の方をご紹介いただいたので、その縁で撮影所に足を踏み入れることも出来るようになり、『スパイダーマン』の撮影を見学させていただいたり、「整理を手伝う」という名目で古い造形物の倉庫に入れてもらったりと、「夢の工場」で働く方々の大変さを垣間見ることも出来ました。撮影所の入り口でばったり平山さんと出くわすこともありましたが、こちらが後を追って東映映像へ入ったらもう姿が見えなかったり、とにかくお忙しくあちこち動かれていたという印象があります。
 昭和54年になると、キングレコードから発売された『キャプテンウルトラ』のLPに平山さんの談話が掲載されたり、朝日ソノラマが出したムック「素晴しき特撮映像の世界」では、座談会出席のみならず掲載された漫画にも登場したりと、平山亨さんという方の人物像が色々な形で紹介されるようになり、それをとても嬉しく感じた記憶があります。こうしたレコードやムックは、私よりもずっと上の世代のファンであってしかも出版業界で活躍するプロの方々が手掛けられたものであり、翌昭和55年にはファン向けの雑誌「季刊宇宙船」が創刊されて、平山さんや、平山さんが手掛けられた作品にもより光が当るようになりました。
 その頃は私も高校生になっていましたが、この昭和55年頃はちょうどその高校生くらいの年代のファンの横のつながりが広がってきた時期でもあり、同人で会を作って研究同人誌を発行する人も出てきました。そうした流れの中で、私も『キャプテンウルトラ』の同人誌を是非とも作りたいと考えるようになりました。物心つき始めた頃に出会った大好きな作品でしたが、東京では昭和48年の再放送が最後だったため、ビデオでの録画なども調達できず、詳しい内容すら確認できない幻の作品となっていました。
 資料も何もありませんでしたから、正直なところ、平山さんのご協力をいただけることを当てにした同人誌企画でした。しかし平山さんは大変お忙しい方です。厚かましいお願いをどのように切り出すか。口下手で引っ込み思案の私があれこれと考えているうちに一日一日と時間が過ぎていきました。そんなことをやっているうちに、いつの間にか友人から話を伝え聞いた平山さんがすでに台本と企画書を撮影所まで持ってきてくださっていると知った時は驚きました。ただの一ファンである私に、その貴重な資料を躊躇なくお貸しくださったのです。しかしもっと驚いたのはその後でした。平山さんは他に資料はお持ちではないので「いい人を紹介するから」とのことで、そのためにわざわざ食事の席を設けてくださり、平山さんの作品にお詳しく、当時すでにプロの編集者・執筆者として業界で活躍されていたお二人をご紹介くださったのです。私にとっては研究者としての大先輩にあたる方々です。私は平山さんにいただいた過分のご厚情を心底有難く思いました。
 しかし、私はこの頃のことを思い出すたびに、胸がすこし痛くなります。思慮に欠けた出来の悪い高校生だった私は、平山さんのしてくださったことがいかに重いかということを本当には理解出来ていなかったと感じるからです。自分が社会に出て年を重ねるにつれ、それがだんだんとわかるようになりました。そして、昨年刊行された平山さんの著書『泣き虫プロデューサーの遺言状~TVヒーローと歩んだ50年~』(講談社)を読んで、さらに胸が痛くなりました。昭和50年代の半ばは、同書第6章「管理職へ」にあたる時期です。そこには、当時の平山さんがいかに時間に追われ飛びまわっていたか、その片鱗を伺わせることが色々と書かれていました。
 私が中学生の頃に初めて平山さんにお会いした頃の肩書は「テレビ企画営業第二部長」と聞いていましたが、同人誌へのご協力を仰いだ際に改めて頂いた名刺にはその下に「代理」の文字がついていました。当時は「おや?」と思っただけでしたが、『泣き虫プロデューサーの遺言状』を読んで、その理由を知りました。部長職は東映本社で半日を費やして行われる全体会議などに出席しなければならず、現場をあちこち飛びまわる平山さんにとっては無駄な時間でしかないので、昭和54年の段階で部長を退かれていたのでした。また、平山さんは渡邊亮徳さんから「飯を無駄に食うな」と教わり、代理店や局の人と食事をしてコミュニケーションを図るようにとも言われていたそうですが、これについても「でも、私は、飯に1時間もかけていられない。地下のカレー屋で流し込むと5分もかからず、仕事に戻れる」と同書にお書きになっていました。
 代理店の人と1時間食事するのさえ惜しいほどにお忙しく働かれていた平山さんが、私に先輩方を紹介してくださるために食事の席を設けてくださり、時間をかけて色々な話をしてくださった、それを思うと今も胸が苦しくなります。『キャプテンウルトラ』に関するインタヴューをさせていただいた際も、平山さんはいつもあちこち飛びまわっておられるので、携帯電話などない時代ゆえに何日も連絡がつかず、ようやく電話がつながって約束をいただいた日もお仕事が押していました。予定より数時間遅れでインタビューを開始したのですが、一日のお疲れがたまっていてしかるべき時間だったにもかかわらず、嫌なお顔ひとつされることなく、にこやかにエネルギッシュに、色々と興味深いお話を聞かせてくださいました。本当に申し訳なく思います。
 『キャプテンウルトラ』の同人誌は1年がかりで翌昭和56年に完成し、平山さんに直接手渡ししてお礼を申しあげることができましたが、私が大学へ進学した後は撮影所へ足を運ぶのが難しくなってしまい、以後殆どお目にかかる機会はありませんでした。
 ここに書いたのは、私の個人的な、小さな小さなお話です。ずっと後になって、平山さんを慕って訪れたファンの中学生や高校生が少なからずいたことや、そのひとりひとりに対して平山さんがとても親切にされていたという話を聞きました。また、映画の道を志して平山さんを頼ってきた方にも、親身になって応対されていたと聞きます。私はそうした大勢のはじっこのひとりに過ぎませんが、そうした話を聞けば聞くほど、平山さんがなさってきたことの大きさに頭が下がるばかりです。平山亨プロデューサーは、数え切れないほどたくさんの魅力的な作品を生み出してこられ、その足跡は今や巨大な山脈として聳えていますが、その根底には平山亨さんという「人間」の素晴しさがあったのだと思います。

 大切な恩人である平山亨さんの訃報に接し、私はいまだに心の整理がつきません。追悼の言葉も何を書くべきか、空をつかむのみでした。今はただ、心からご冥福をお祈りするばかりです。

 

鈴 木 宣 孝    

 

 

 

 

 

 

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