『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』―記憶の海の底に―



 『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』(Kubo and the Two Strings)は、映画を観るということの原点を思い出させてくれるような作品だった。  
 初めて観た映画は何だったか、それすら定かではないほど幼い頃から、私は親に連れられて劇場を訪れ、暗闇の中に映し出される極彩色の物語に心を奪われた。映画館は「親が連れて行ってくれる特別な場所」であり、映画の記憶はすわなち親子の記憶でもあった。我が親は幼児の私に洋画の『2001年宇宙の旅』を見せたかと思えば、同じ年に東宝の怪獣映画『怪獣総進撃』や東映の長編動画『太陽の王子 ホルスの大冒険』にも連れて行ってくれた。子の要望と親の意志のせめぎ合いの末に、どの映画を観るかの宣託が下されるのが常だった。
 そうした中で、親子の衝突の一番少なかったのが東映の長編動画だったと思う。当時の報道に今改めて目を通してみても、東映長編動画は親が安心して子に見せられる映画であり、子に見せたい映画だったのだと感じる。だが、東映長編動画黄金時代の流れは絶えて久しい。
 『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』はまさにその系譜を今に受け継ぐ優れた映画だというだけでなく、東映長編動画の『わんぱく王子の大蛇退治』と『太陽の王子 ホルスの大冒険』からの多大な影響が感じられ、映画を観ている間、心の中の記憶と目の前の物語が響き合い、その響きは豊穣な波となって私の心を揺さぶった。幼児の頃、映画館のスクリーンに映し出される別世界に入り込んで、映画と心が一体になっていたあの感覚、それが今に蘇るような感じだった。『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』は映画を観る素朴な喜びと繊細な感動をもたらしてくれる作品であり、今の子供たち、そしてかつて子供であった人たち全員にお勧めしたい映画だ。
 ここで私が試みるのは、私自身のごく個人的で狭い映画体験との共鳴関係から『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』を紐解くことだ。『わんぱく王子の大蛇退治』と『太陽の王子 ホルスの大冒険』は、私にとって『KUBO』と深くつながる二本の弦であり日本の弦だった。そしてもう一本、私自身の記憶の海の底に眠っていたある作品が、実は三本目の弦だったと気づいた驚きも含め、順を追って書き記していく。この個人的で主観的な話は、ぐるりと廻って『KUBO』の客観的な本質の理解へもつながっていくのではないかと考えている。


(1)『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』の成立とモチーフについて

 私の個人的な話としての本題に入る前に、『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』の創り手たちが公言している客観的な情報を基に、その成立過程や影響を受けたモチーフについてある程度整理しておく。
 物語の原案を作ったのはシャノン・ティンドル。そしてその源泉を辿ると、ティンドルの妻とその母親、Katy の関係に行きつく。Katy は若い頃に Dementia(現在は「認知症」と訳される)となり、また車椅子での生活も余儀なくされて、ティンドルの妻は子供の頃から母親の世話をして育った。ティンドルは義母の人間的な魅力と母子の美しい関係から受けた印象を基に、古代の日本を舞台に母子の物語を語るオリジナルのお伽話(Fairy tale)を書いて贈り物とした。
 数年かけて、その物語はさらに日本の民話(Folktale)からの影響も受けつつ新たな発想が追加され、より大きな物語へと発展した。スタジオライカに企画を持ち込む前から、ティンドルは撮影監督のフランク・パッシンガムと作品の視覚イメージについて意見を交換していたという。例えば、デヴィッド・リーンの『オリヴァ・ツイスト』冒頭部分において、オリヴァを身籠っていた母親が嵐の夜に安全な出産場所を求めて野を進んでいく心理・情景描写は、『KUBO』導入部の礎となった。また、黒澤明の『影武者』で軍列の行進が続く背後から差す夕陽の光は、Kuboが朝の道程で通る穀物畑に差す光の豊穣なイメージへと昇華された。
 スタジオライカへ企画が持ち込まれて採用が決まると、シャノン・ティンドルはマーク・ヘイムズと詳細な物語の構築に長い期間を費やし、それは最終的にマーク・ヘイムズとクリス・バトラーによる脚本として結実した。この過程においては、監督のトラヴィス・ナイトの他にアリアンヌ・サットナーやクリストファー・マーリーによる意見や要望も統合されている。
 トラヴィス・ナイト監督が本作と取り組む上で芯となったのは、子供の頃に両親からもたらされた二つの柱であり、それは母親からもたらされた「ファンタジー」への愛と、父親からもたらされた「日本」への愛だった。母親からトールキンの『指輪物語』などを小さい頃から読み聞かせられて育ったナイトは、こうした叙事詩的で雄大なファンタジーが大好きで、それはまさに人生の一部とさえいえるほどの存在だった。また、八歳の時に父親に連れられて日本を訪れたナイトは、それまで見たことのなかった日本と日本の文化に強く魅せられた。建築物、音楽、漫画、映画、テレビ番組…中でも小池一夫小島剛夕画)の『子連れ狼』の漫画は強烈で、日本語の文字自体は読めずとも、そこには視覚的な語りの美しさと豊かさがあった。
 ファンタジーへの愛、日本への愛は、ナイトにとって母・父・子の家族の愛とつながっており、ティンドルが提案した物語はまさにナイトが初監督作に求めていたものでもあったのだろう。

 『子連れ狼』は、公儀介錯人たる拝一刀が、柳生一族の奸計により妻を殺され地位を追われ、その怨みを晴らし受けた恥辱をそそぐため、士道を捨て息子大五郎と共に冥府魔道を行く刺客人として旅をするという物語。裏柳生の頭領たる柳生烈堂は、『KUBO』のMoon King のような存在でもあり、物語の終盤では倒れた拝一刀の代わりに大五郎が烈堂に挑みこれを倒す。刺された烈堂が大五郎を抱きしめ「わが…孫よ…」と呼ぶ謎めいた決着も含め、この漫画からの影響は非常に大きい。
 拝一刀に襲いかかる弁天来三兄弟を描いた構図は、シャノン・ティンドルが書いた Sisters のプロダクション・アートの一枚と強い類似性があり、ティンドル自身も『子連れ狼』の影響を認めている。 拝一刀が使う剣術である水鷗流の構え(右手の剣を真横に差し上げ左手は腰の鞘に)はKuboが三味線を構える姿勢につながる。面を着けた刺客を斬り殺した後、外された面とその素通しの目の部分が、持ち主である刺客の死を象徴する存在として提示されるという描写もまた、Sisters の死を暗示する仮面のイメージの源泉なのだろう。
 『KUBO』のアートブック(Emily Haynes : The Art of Kubo and the Two Strings [Chronicle Books LLC / 2016])には、映画の中盤で登場する船のプロダクション・アートに対比して、『子連れ狼』に登場した船の絵が掲載されており、その関連が明らかにされている。その他燈篭流しの情緒や鎖鎌と刀の対決、村や町の風情に至るまで、『子連れ狼』の日本描写から多くの影響が感じられる。
 続篇たる『新・子連れ狼』では、死んだ拝一刀に代り父の如き存在となった東郷重位が、大五郎に語りかける。「……過去のことは その眼に焼きつけ 心に残せばよか おまンさの父親を おいは知らぬ だれも知らぬげな おまンさだけが 知っている おまンさの心の中にだけ 父親がいる おまンさの心の中で いまも 父親は生きている おまンさが死ねば 父親も死ぬ この世から父親も 消える おまンさが強くたくましく 生きぬけば 父親も 生きつづけよう」
 『子連れ狼』『新・子連れ狼』を読めば、そこにあるのは次から次へと繰り広げられる夥しい殺戮だ。されど、その死の連続の中にこそ、生とはなにか、生きることはどういうことかという問いかけや答えが示されている作品でもある。重位が大五郎に語りかけた言葉は、『KUBO』で語られる死生観としての記憶(Memory)の力とその意味、親の死をどう受け止め自らの一部とするかというテーマと強くつながっている。
 また、『新・子連れ狼』では重位と大五郎が海で巨大な波に襲われ、巻き込まれて離れてしまった大五郎を捜して重位が浜を捜す描写があり、その情景や水のうねりの表現などはまさに『KUBO』の冒頭描写の情感につながるものだ。他に、巨大な鯨の死骸を身を隠すために使うという話などもあり、細かく見ていくと響き合うイメージは枚挙にいとまがない。

 さて、ナイト監督が『KUBO』を語る際にしばしば題名を挙げるもうひとつの作品が、『スター・ウォーズ』だ。特に『スター・ウォーズ』『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』『スター・ウォーズ ジェダイの復讐』の三部作からの影響は深い。田舎の町で穏やかで平凡な暮らしをしていた主人公の村が、突然焼き討ちにあって親代わりだった叔父夫婦が殺され、それが冒険への旅立ちの契機となるという序盤は勿論だが、全身黒の謎めいた人物が実は父親であるという仕掛けや、モフ・ターキンを演じたピーター・カッシングの容貌、雪嵐の中を走るトーントーンの情景、ハン・ソロを飲み込もうとするサルラックなど、三部作の様々なイメージから影響を受けた部分が『KUBO』の随所に見られる。 しかし最も肝要なのは、星々を舞台にした大戦争の話でありながら、その中心を貫くのは親子のごく個人的な物語だということだ。父の死と折り合いをつけ乗り越える、という意味において、『子連れ狼』との共振関係も深い。そして三部作を締めくくる『ジェダイの復讐』のラストシーンで描かれる父親の穏やかで慈愛に満ちた魂の姿、その表現と物語の締めくくりの精神性は『KUBO』と強く重なり合う。

 また、トラヴィス・ナイト監督がドキュメンタリーで語ったところによれば、『KUBO』は「成長するとはどういうことか」「家族を持つとはどういうことか」「その意味するものは」についての個人的な物語であり、それはスタジオライカが『コララインとボタンの魔女』で始めて、『パラノーマン ブライス・ホローの謎』『ボックストロール』を通して発展させてきた大きな物語の一部でもあるという。『KUBO』がそうした大きなテーマを根幹に持っているのは無論だが、これら過去三作の物語の中からも様々なモチーフやシチュエーションが姿を変え形を変えて『KUBO』の中に受け継がれ影響を与えている。
 以上のような様々な物語の他、葛飾北斎などの日本の浮世絵や斉藤清の現代版画からの影響についても製作スタッフは言及しているがその辺りはここでは詳述しない。
 また、創り手が明言していない領域としては、白土三平の『サスケ』『ワタリ』などの漫画からも少なからぬ影響が感じられ、他にも日本の漫画や劇場映画との関連に思いを巡らすときりがないが、この領域についての話もここでは省略し、本題へ進む。

f:id:latitudezero:20181231175733j:plain


(2)第一の弦 ―『わんぱく王子の大蛇退治

 前章で触れた作品群からの『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』に対する多大な影響は明確だが、私個人の視点からは東映長編動画の『わんぱく王子の大蛇退治』と『太陽の王子 ホルスの大冒険』こそが、『KUBO』と最も深くつながる二本の弦だ。
 『KUBO』の創り手はこの二作品の題名に触れていないが、予告篇には意図的な示唆と思える映像が登場する。ここに掲げた、『わんぱく王子の大蛇退治』と『KUBO』から引用したカットの相関は特に印象深い。また『ホルスの大冒険』の雪狼の群れを彷彿とさせるカットも予告篇にあり、この東映長編動画二作品との深いつながりをさりげなく暗示している。

 『わんぱく王子の大蛇退治』(1963年)は、日本神話を基に創作された冒険譚。人間の住む世界を創った神であるイザナギイザナミの子、スサノオが主人公だ。映画冒頭は平和なオノゴロ島での母イザナミとの温かく穏やかな一日が描かれるが、母子の幸せな日々はイザナミの突然の死によって終わりを告げる。母がいるという幸せの国をめざし、制止する父の言葉にも耳を貸さず旅立ったスサノオは、兄ツクヨミや姉アマテラスを訪れて騒動を巻き起こしつつ、たどり着いたイズモで暴威をふるう強大なヤマタノオロチと対決し、捜し求めていたものを見つけるという物語だ。
 イザナミスサノオの母子の美しきひとときは、シンプルな描線の絶妙な動きに繊細な情感を乗せた深い表現力のアニメーションと、それと一体となって響き合う音楽の豊かさ、その総体としての映画的情緒によって支えられている。それが観客の心を強く惹きつけるからこそ、母の死がもたらす哀しさもまた深い。
 『KUBO』の序盤で Kuboが過ごす一日も、そうした映画的情緒に満ちている。Kuboの母は太陽が昇っている間は魂が抜けたような状態にあり、Kuboは朝暗いうちから食事の準備をして母を起こし、箸で口へ食べ物を運んで世話をする。食事が済むと、住み家である洞窟の入口へ母の手を優しく引いていき座らせ、朝の柔らかな光の中、Kuboは母の横に座り静かに折紙を折る。この間、台詞は全くなく、母親は抜け殻のような状態で殆ど反応はない。されど、Kubo の表情と所作からは、母を気遣う深い愛情、母と共に過ごす喜び、そして母の状態への憂いが、言葉では表現し得ない細密さで観る者の心に響いてくる。陽が昇っている間、村で大道芸をして生活の糧を得ているKuboは、日暮れ時には洞窟へ戻り、日没によって意識を取り戻した母と夕食をとり、食後の楽しいひとときを過ごす。昼間とは別人のように能弁で朗らかな母は、大きな身振りで動き回りながら物語をKuboに話して聞かせ、明るく楽しい時間が流れるものの、その記憶は次第に混濁して言葉に詰まり立ち尽くす。そして静かに向き合って座る母子の間で始まる親密な会話では、ふたりの感情が刻々と繊細に変化しながら絡み合うさまが観客に深く伝わってくる。
 母がKuboの両肩に手を乗せて語りかける姿は、『わんぱく王子の大蛇退治』でイザナミスサノオの両肩に手を乗せて語りかける姿と美しく重なり合う。母と子の間に流れる情緒の紋様の美しさは、『わんぱく王子の大蛇退治』がかつて表現し得た境地を受け継ぎつつ、母子が抱えている謎や葛藤による独特の陰影が加わって、精妙で奥深い。
 映画序盤でのKuboの一日は、柔らかく暖かく穏やかで幸せに満ちているが、それが薄皮の上のかりそめの安寧だという暗示が密やかな影を落としてもいる。そして、日暮れ前に帰るという母との大事な約束を守れなかった時、その小さな影は安寧の世界を引き裂き巨大な闇となってKuboを襲う。駆けつけた母はKuboを安全に逃れさせるため、身を捨てて闇と激突し、その光芒の中に消えていく。母との穏やかな一日が観る者の心を捉えるからこそ、母を失う痛みが観客の心を強く揺さぶる、それもまた『わんぱく王子』と重なり合う構造だ。
 『わんぱく王子』では、お別れもできぬまま黄泉の国へ行ったはずのイザナミスサノオの許に姿を現し、つかの間の会話を交わすが、やがてイザナミの手はスサノオの手からすうっとすり抜け、イザナミの姿は悲しげな表情で空の彼方へ飛んでいき、スサノオは「お母さま、お母さま!」と懸命にその姿を追う。『KUBO』での母子の別れもまたそれと響き合う悲しさを湛えている。Kuboに羽根を与えた母は、空にやさしく放つようにつないでいた手をすうっと離す。高みへ上昇しながら「Mother, Mother!」と懸命にもがくKubo、それを見送る母の何ともいえない表情からは、その心の中の哀しみと葛藤が切々と伝わってくる。
 言葉や台詞で説明すればその繊細なニュアンスがすり抜けてしまうような複雑な心情が、アニメーション表現によって豊かに伝わってくる素晴しさ。私がアニメーションに求める美しさの真骨頂がここにある。そうした意味において、『KUBO』は東映動画の美を今に受け継ぎ発展させた作品だと私は受けとめている。

 『わんぱく王子の大蛇退治』と『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』はいずれも幻想譚だ。しかしその基幹には、「親の死をいかに受け止め、それを自らの一部とするか」というテーマがあり、それは我々の生きる現実世界と深くつながっている。両作の序盤に於いて、Kuboは父と母が死んだということを理解しているが、より幼いスサノオは母に何が起きたか理解できていない。「イザナミがお歿れになった」という報せを耳にしたスサノオは、その意味も判らず母の許へ走るが、そこに母の姿はなく、静かに佇む父イザナギは「お母さまはね、お亡くなりになったんだよ」と穏やかに語りかける。

「おなくなりになったって、どういうこと?」「それはね、黄泉の国へ行かれてしまったということだ。お母さまも、さぞ、悲しかったことだろう。お父さまとも、かわいいスサノオとも別れて、たった一人で行かれてしまった。でも、仕方のないことなのだ。お迎えが来たのだからね。嫌でも一人で行くしかなかったのだよ」。

 イザナギは「死」という言葉を決して口にせず、お亡くなりになった、黄泉の国へ行った、お迎えが来た、という言葉を並べつつも、その言葉が指し示す厳粛な真実を曖昧にする。幼い子を残して去った母の無念さを想い、意味も判らずに残された子の哀れさが心を締め付けるがゆえの父の逡巡がそこに見える。母の許へ行こうとして父に叱責され、号泣したスサノオは疲れ果てて寝てしまうが、その傍らにイザナミの「姿」が忽然と現れて語りかける。

「ねえ、スサノオ。これからは自分の力で強く生きて行くのですよ。お母さまは、遠い国でいつも見ていますからね。」
「お母さまのいらした国って、どんなところなの?」 「それはね、平和でね、静かで、美しい、幸せの国なのよ」
「じゃあ、僕も行きたいなあ。ねえ、どこなの、そこ、海の向こうなの?」「そう、海の向こうの母の国、幸せの国よ」
「そこにはどうやって行くの? ねえお母さま」 「でもね、行こうとしても、なかなか行けない所なのよ」

 死の冷厳さを理解させることを避け、「遠い国」にいるという話でスサノオを安心させ納得させようと懸命に試みるイザナミの姿。空遠く飛び去る母の姿を追って海に飛び込んだスサノオは意識を失い、父イザナギの腕の中で目を覚ますが、母との会話が夢ではなかった証として、その胸には母がくれた勾玉が残っている。
 『わんぱく王子』の世界では、死んで肉体が滅んでも、その精神あるいは魂が再び現世に姿を現し、生者と言葉を交わす。また、前章で『KUBO』の影響元として挙げた『スター・ウォーズ』三部作でも、死んだ者の霊体がこの世に姿を現し生者と親密に会話する。イザナミジェダイの騎士も「普通の人」とは違う特別な存在だという逃げ道はあるにせよ、死後の世界が存在する可能性を示唆していることに変わりはない。そしてそれは、この世を去った者が必ずしも無に還るのではないという救済であると同時に、死というものの厳粛な真実を偽りの甘皮に包む行為だともいえる。
 『KUBO』の世界では、母の肉体が消滅した後もその精神は木彫りの猿を依代として現世に留まっているが、これはあくまで「死者が現世に姿を現し言葉を交わす」のではなく、「精神はまだ生きている」という状況だ。そして『KUBO』が選んだ道は『子連れ狼』の姿勢に近い。『子連れ狼』では、大五郎の父たる拝一刀が宿敵との死闘の末に命尽きた時、その体はピクリとも動かぬ骸と化し、死の現実を読者に厳しく突きつける。そしてその死者の魂が姿を現して生者に語りかけるようなことはない。『KUBO』で瞬く間に絶命し動かぬ骸と化したBeetleの姿もまた、命の儚さ、死の冷厳さを観る者の心に刻みつける。
 『わんぱく王子』と『KUBO』のこうした姿勢の違いは、お互いを否定する関係にあるというよりは、親の死を受け止める側の主人公の年齢の違いであり、死の現実が持つ冷厳さを直に受け止めるにせよ、あるいは、死の概念が曖昧なまま緩やかに受け止めさせて、成長と共に徐々に理解していくのを待つにせよ、死を受け止める道はひとつではない、ということだと私は解釈している。そしてこの二つの道は、両作の終盤で一つの同じ太い道へ向かっていく。
 『わんぱく王子』の終盤で、姉アマテラスを訪れ騒動を起こしたスサノオがタカマガ原(高天原)を去るにあたり、アマテラスは母の国を捜しつづけるスサノオをもはや止めようとはせず、求めるものを捜すように促す。恐ろしい敵に出会ったら挫けず勇敢に戦い、苦しんでいる人たちを救えば、必ず母なる幸せの国を見いだすことができる、という謎めいたアマテラスの言葉を拠り所に旅を続けるスサノオは、辿りついたイズモで自分と同じ年頃の少女、クシナダと出会う。
 以後描かれるのは、スサノオの「親離れ」だ。母親に似た少女クシナダに心惹かれ、母親一辺倒だったスサノオに変化が生まれる。そしてイズモの人々を苦しめクシナダを狙う強大なヤマタノオロチと対決し、死闘の末にこれを倒すと、オロチの体は穏やかな流れの川となり、荒れた土地は豊かな国土に姿を変える。するとその明るい空にイザナミの姿が現れ語りかける。

スサノオ、お母さまはね、ずうっとスサノオと一緒にいたのですよ。」 「一緒に?」
「そう、スサノオの心の中に、いつも一緒に。」 「お母さまの国は?」
「平和で、静かで、そして美しい、幸せの国、豊かな土地…」 「わかった、ここが母の国なんだ!」
「そうですよ。仲良く力を合わせて、立派な国にしてくださいね。」 「お母さま!」
「いつまでも幸せに暮らすのですよ」 「はい、わかりましたお母さま」

 ここで描かれる悟りは、スサノオを救済するために周到に用意された欺瞞だともいえる。イザナミは、死してまもなくスサノオの元に姿を現した時には「これからは自分の力で強く生きて行くのですよ。お母さまは、遠い国でいつも見ていますからね。」と言った。しかしこの終幕では、「自分の力で強く生きて行く」のではなく「仲良く力を合わせて、立派な国に」と促し、また「遠い国でいつも見ています」ではなく「ずうっとスサノオと一緒にいた」と言葉を改めている。イズモの国を母の国だと納得させ、母にべったりの依存からクシナダたちとの新しい毎日へと足を踏み出させる「親離れ」が成し遂げられ、スサノオは呪縛から解放される。
 イザナミは死を理解させることも受容させることも避けたまま「親離れ」だけで解決する欺瞞を用いつつ、それを通して「スサノオの心の中に、いつも一緒に」いるという、「本当に大切なこと」をきちんと伝えている。スサノオが成長して死の意味を理解していくにつれ、その言葉の本当の重みも深さもわかるようになるだろう。

『KUBO』の終盤もまた、その「本当に大切なこと」の悟りへと向かっていく。
 映画の終盤、三つの武具を揃えたKuboは、両親の命を奪った闇の勢力、The heavens の王であるMoon Kingと対峙する。しかし巨大なMoon Beastへと姿を変えたMoon Kingの力は圧倒的で、三つの武具を持ったKuboですら打ち勝つことはできなかった。Kuboは武具を捨て、父母の形見と自分の髪を三本の弦とした三味線を手にする。Moon Beastは「Everything you loved is gone. Everything you knew has been taken from you.」と言うが、Kuboはこう答える。

「No, It’s in my memories. The most powerful kind of magic there is.」

 Kuboが三味線を弾くと、川面に浮かぶ燈篭の明かりの一つ一つが人の姿となり集まってくる。そしてその燈篭に亡き者への思いを込めた村人たちもそれに誘われるようにKuboの周りにやってくる。Kuboは言う。「It makes us stronger than you’ll ever be. These are the memories of those we have loved and lost. And if we hold their stories deep in our hearts, then you will never take them away from us.」
 燈篭の光から霊魂のように出てきた亡き者の姿に対し、Kuboは「これらは私たちが愛し、失ったものの記憶だ」と言い切る。それは、お盆に燈篭に明かりを灯して流す行為の本質が、霊魂の召喚と送還という儀式の外形にあるのではなく、自分の心の中にある愛しき人との対話であるという悟りだ。Their stories、すなわち愛しき人の記憶を心の奥深く抱き続ける限り、それを自分たちから奪い去ることは決してできない、という力強いKuboの言葉こそは『KUBO』という作品の核心であり、前章で『新・子連れ狼』から引いた「おまンさの心の中で いまも 父親は生きている」「おまンさが強くたくましく 生きぬけば 父親も 生きつづけよう」という台詞に込められた心とも重なっている。
 『わんぱく王子』と『KUBO』は、同じように始まり途中で分岐しつつ、「心の中にいる」という同じ悟りへと、ひとつの太い道へと合流する。普遍的で当たり前の結論だともいえる。されど、その重さ大切さを、強い力を持った物語を通して伝えることができる、それがこうした映画の素晴しさだ。

 そして『KUBO』は最後の最後に優しい贈り物で幕を閉じる。父母の燈篭との対話で願いをかけるKuboの顔から夜空の三日月へとディゾルヴすると、Golden heron が飛んでいる。川面の燈篭が次々に Golden heron となって飛び立っていく夢のような光景、それを観ている父と母そしてKuboの三人の笑顔で物語は終わる。川面に鳥が姿を現し飛び立っていくさまは、『わんぱく王子』でオロチの変化した川から飛び立つ鳥のイメージと重なる。肉体がなく背後が透けて見える魂だけの父母の姿には、かれらの肉体が受けた痛ましい惨禍の痕跡は微塵もなく、それは『ジェダイの復讐』ラストでのルークの父親の健やかな魂の姿と重なっている。
 ここでKuboは三味線を持っていない。ゆえにディゾルヴ後の出来事は三味線による魔法ではなく、全てKuboの「心の中」の光景だと解釈するのが順当だが、いや、もしかしたら幸せな奇跡が起きたのかもしれない、と捉える余地も残しているのがこの映画の優しさだろう。
 トラヴィス・ナイト監督は、このラストについて「His parents are no longer physically around, but he'll carry them with him, like we all do.」と語っている。


(3)第二の弦 ―『太陽の王子 ホルスの大冒険

 日本神話を元に生みだされた『わんぱく王子の大蛇退治』。その5年後に公開された東映長編動画『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年)は、神話ではなくアイヌの民話をルーツに持つ物語だ。
 辺境に住む少年ホルスは岩男モーグと出会って太陽の剣を手に入れるが、父が死んでひとりぼっちとなり、小熊のコロを連れて人々の住む村を捜す旅に出る。その途上で出会った悪魔グルンワルドの誘惑を拒絶し、村に辿りついたホルスは暖かく迎えられるが、とある廃墟で出会った少女ヒルダを村に招き入れたのをきっかけに、共同体としての村に徐々に亀裂が入っていく。悪魔への恐怖が猜疑心を生み、嫉妬や欲望に囚われた者の扇動が村をばらばらにして、ホルスは誤解により村を追われる。葛藤を抱えつつも悪魔の妹として暗躍していたヒルダはホルスを迷いの森へ落とすが、ホルスは迷いを乗り越え確信を得て森を抜けだす。ヒルダは悪魔としての自分の存在を守ることを捨て、ホルスは村人たちと力を合わせて太陽の剣を鍛え上げ、村を滅ぼすべく襲い来る悪魔グルンワルドを倒す。村は復興へ向けて歩み出し、人間としての自分を取り戻したヒルダを迎え入れる。
 『ホルスの大冒険』は「悪魔と人間」という対立の構図を通して「個人と共同体」の相互関係や本質を炙り出す物語であり、「人はどう生きるべきか」についての強い主張を持った教宣映画だともいえる。そしてそうした社会思想的な面が強く押し出されている一方で、繊細で複雑な心理と情緒で紡がれた、詩的な美しさを芳醇に湛えている映画でもある。思想と詩情、それが『ホルスの大冒険』の両輪だ。

 (3a)悪魔と人間

 「悪魔と人間」という対立関係は、『KUBO』における The heavens と人間の対立関係に重なるが、そもそもここで言う「悪魔」とは何か。
 『ホルスの大冒険』の企画の発端は、1965年3月に東映長編動画『ガリバーの宇宙旅行』が完成した直後、原画家大塚康生が次回作の作画監督に指名された時にまで遡る。大塚は演出担当として高畑勲を、企画は松谷みよ子原作の『龍の子太郎』を提案するが、高畑・大塚を中心とするグループで企画を練る過程で『龍の子太郎』は廃案となり、1959年に劇団人形座が公演した深沢一夫の脚本による人形劇『春楡の上に太陽』を元にする新たな企画案が会社に提出された。『春楡の上に太陽』は詞曲「オキクルミと悪魔の子」を元話とし、それに元話に登場しない悪魔の妹チキサニを加えて脚色したものだという。
 さらに遡れば、アイヌの民族叙事詩であるユーカラの中に「オキキリムイの子が所作しながら歌った神謡」がある。オキキリムイの子が悪魔の子に遊ぼうと声をかけられ、悪魔の子が川や山を乱すので最後には喧嘩となって悪魔の子は山へ投げつけられ、川の鮭や山の鹿の笑い声が平和に響くという素朴な童話詩。高畑勲はこの詩について「私たちの作品の出発点であり、常に精神的支柱でありつづけた」(高畑勲『ホルスの映像表現』徳間書店/1983年)と書いている。しかしここで描かれる悪魔の子はあまりに素朴であり、どのような形にも解釈できるが、こうしたユーカラを元にした詞曲「オキクルミと悪魔の子」はどのような姿勢だったのか。
 『春楡の上に太陽』公演の1年前、民話の会が編纂し刊行した『教室の民話 上級用』(国土社 1958年)に「オキクルミとあくまの子」と題する民話が収録されている。これを担当したのが深沢一夫だった。
 「オキクルミとあくまの子」の舞台は、北のアイヌの国。シリベシ山と二つの山、四つの谷をめぐる野にオキクルミとけものたちが住んでいる。ある日見慣れぬはげ頭の大きなクマ、ケムシリが寝ているのに出会い、オキクルミが話を聞いてみると、あくまの子に追いかけられ、三日三晩逃げてきたのだという。ケムシリはあくまの子モシロアシタの誘いにのって勝負をし、騙されて弄ばれ痛めつけられたのだったが、その話を信じないトガリネズミも栗の実を採りにいってあくまの子と遭遇し、言葉巧みに難癖をつけられ追いかけられる。「おれはどこにでもいる。どこからでもあらわれる。林をからし、川にどくを流し、けものは、のこらずいころしてやる。」と嘯くあくまの子は、オキクルミに「いい遊びを教えてやろう。」と話しかけ、天へ向けて矢を放つ。矢は千本の矢となって森、林、野に黒雲をまいて襲いかかり、けものたちは天空に巻き上げられるが、オキクルミが黒雲めがけ矢を放つと千本の光の矢となり、光は風を呼んでけものたちは森へ逃れる。あくまの子とオキクルミの激しい戦いが展開され、最後はオキクルミがあくまの子をシリベシ山めがけて打ちつけると、山が火を噴いて一瞬暗闇に台地が閉ざされた後、あくまの子は消える。けものたちの喜びの声がこだまし、オキクルミはけものたちの元へ駆けていく。
 この物語に登場する間抜けなクマは、後に『ホルスの大冒険』に登場する小熊を想起させ、奸言と暴力を組み合わせてけものたちを翻弄するあくまの子の描写も印象的だが、「どこにでもいる。どこからでもあらわれる。」というあくまの子は一体何なのか。
 「オキクルミとあくまの子」に付された「朗読と指導のてびき」には、次のように書かれている。
 「北に追われ、最後の地で、きびしい季節のなかに、ただ自然をたよって生きてきたアイヌは、自然を愛し、また恐れてもいました。ひとたび、はげしい寒波がおそえば、草木は枯れ、けものたちは食を断たれて死滅してしまいます。/この話も、自然とのたたかいのなかで、うたわれてきたのでしょう。/そこへ、松前の圧政などで、アイヌは、日本人、または北からわたってきた白人たちに痛めつけられ、この物語のように、自然とのたたかいで育てた力を、外敵から国や、けものたちを守るという、おおしい感情にまで高めてきたのです。素朴な、力強いリズムと、その広大な大地を思い浮かべるように、話してください。」
 つまり、北辺の地に生きるアイヌにとって、大自然は恵みの元であると同時に厳しい脅威でもある。その脅威の最たるものが冬の寒波であるというのがひとつ。もうひとつはその地に迫りくる侵略者たる外敵。そのふたつを物語の中で象徴するのが悪魔だという解釈であり、これが深沢一夫が後に『春楡の上に太陽』『ホルスの大冒険』の脚本を執筆する上で、悪魔の概念の基礎となったのだろう。

 人形劇『春楡の上に太陽』は1959年の公演以来再演の機会はなく資料も乏しいので、ここでは当時の雑誌「学校劇」11月号に掲載された小田健也の劇評「『春楡の上に太陽』評 ――論理は視覚化されねばならない――」と、2018年の雑誌「ユリイカ 詩と批評」7月臨時増刊号に掲載された鷲谷花の「美しい悪魔の妹たち 『太陽の王子ホルスの大冒険』にみる戦後日本人形劇史とアニメーション史の交錯」に記された情報を主な拠り所として話を進める。
 『春楡の上に太陽』の物語は、以下のようなものだ。
 アイヌの少年であると同時に神の子でもあるオキクルミは、身寄りのないチキサニという少女と出会い、自分の部落へ連れ帰る。しかしチキサニの正体は悪魔モシロアシタの妹だった。悪魔にとっては死を意味する明るい真夏の太陽が輝きだす前に、湖のほとりに住むアイヌを滅ぼしてそこを住処とするのが、その密かな目的だった。悪魔は毒血を流して漁獲を阻んだり、けものを殺したりするが、アイヌ部落も団結して防戦に努める。悪魔に矢を射込めるのは神の子であるオキクルミしかいないが、そのオキクルミアイヌからの信頼を失い叛かれれば、神の子としての力を失う。悪魔はチキサニに命じて、オキクルミアイヌから引き離そうとするが、チキサニはオキクルミに惹かれ、アイヌの生活を美しいものに思い始めていた。しかし悪魔であることを止めれば鹿の姿に変えられる宿命を知ったチキサニは、オキクルミこそ悪魔だと部落の人々に吹き込む。一人になったオキクルミは剣刀で向かってくるチキサニを剣刀で倒し、欺瞞に惑わされなかった部落の古老ケムシリは人々を引き連れてオキクルミの元へ駆けつける。光に弱い悪魔は、人々がかざす剣の光に力弱まり、オキクルミに倒される。人々の上には明るい太陽が輝きだす。
 「オキキリムイの子が所作しながら歌った神謡」と「オキクルミとあくまの子」は、神の子と悪魔の子、そしてけものたちだけの世界だったが、『春楡の上に太陽』では人間が住む共同体としての部落が登場する。そしてオキクルミは、共同体の団結がもたらす力を象徴する存在として捉えられている。真夏の太陽を恐れる悪魔は、冬の脅威の象徴であると同時に、住処を狙う「明確な意図を持った侵略者」たる外敵の象徴でもある。この悪魔の表現は、「オキクルミとあくまの子」の「朗読と指導のてびき」で説かれた解釈の線上にあって、この『春楡の上に太陽』ではより明確に象られている。さらにいえば、悪魔の妹たるチキサニは、人間の内面や人間の共同体に生まれる葛藤と相克の象徴でもあろう。

 『春楡の上に太陽』と、それを原案として生み出された『太陽の王子 ホルスの大冒険』の基本的な構図は、当然ながら非常に似ているが、「悪魔」の解釈と設定は微妙に異なる。『ホルスの大冒険』では、悪魔が冬の脅威を象徴する存在であるという視座は、氷と吹雪の視覚的なイメージによってより明確になっている。しかしその一方で悪魔の行動原理は見えにくい。『春楡』では、「悪魔にとっては死を意味する明るい真夏の太陽が輝きだす前に、湖のほとりに住むアイヌを滅ぼしてそこを住処とする」という侵略の動機も目的も明確なのに対し、『ホルスの大冒険』では悪魔グルンワルドがなぜ村を瓦解させ滅ぼそうとするのかが明瞭に語られない。『春楡』の悪魔が、湖の傍らを住処として手に入れるというこじんまりとした(しかし明確な)目的で動いているのに比べ、『ホルス』の悪魔は「この地上に俺より強い者はいない。そして偉い者もだ」「この世界が全て俺の手の中にある」「この地上は俺の物だ」と壮大な立ち位置から嘯き、方々の村を次々に滅ぼしているが、滅ぼした後の村やその土地は放置されたままだ。
 殺したはずのホルスが生きていたことを知ったグルンワルドは激しく狼狽し、「油断は出来んぞ。奴が力をつける前にどうあっても叩き伏せるのだ。それが俺の全てにつながる」と言葉を洩らす。つまり『ホルスの大冒険』の悪魔は、人間に対して圧倒的な力を持ちながら、その人間の中から自らの存在を脅かす存在が出てくるのを恐れている。脚本での「いつかかならず、全てがオレの足もとにかしづく、氷と死の奴隷に変わって行くのだ!」という比喩的で曖昧なグルンワルドの台詞が完成作品では削除される一方で、「この地上の全ての人間を滅ぼす」という具体的な意図を示唆するトトの台詞が別の場面に追加されたことによって、グルンワルドの行動は「征服欲」というよりは「自己防衛のための殲滅」であることが一層明瞭になっている。
 そしてこの構図は、『KUBO』における Moon King の行動原理と重なり合う。The heavens に対して人間は遥かに脆弱だが、魔法の武具を手にした人間は強大となり、いずれは The heavens への脅威になるだろうという「猜疑心から生まれた恐怖と硬直した思考」によって、Moon King は自分の娘たちを地上に遣わし、多くの武士たちを容赦なく殺戮した。そしてここには、先に書いたような「冬の脅威」や「土地を狙う侵略者としての外敵」などを象徴するという多義性は存在しない。
 多義性を廃して明瞭化された Moon King は、果たして何を象徴しているのか。それは観る者の心に大きく依存する。私が思い起こすのは、我々が生きる現実世界で遠くない過去に実際に起きた出来事だ。強大な力を持つ大国が、某国に対して「大量破壊兵器を隠し持っている」と難じ、挙兵しその国へ圧倒的な軍事力で侵攻して多くの血が流れた。「猜疑心から生まれた恐怖と硬直した思考」に踊らされ、強者が弱者に熾烈な暴力をふるって命を奪う。それはいわば「悪魔」の心であり行動ではないだろうか。

 さて、『ホルスの大冒険』の終盤では、団結した村人たちの力によって太陽の剣が見事に鍛え上がる。その太陽の剣を手にし、ヒルダの命の珠で空をも飛ぶホルスは、悪魔グルンワルドを圧倒する。逃げるグルンワルドは悪魔の城に追いつめられ広間に墜落し、それを村人たちが高みから取り囲み松明が一斉に投げ込まれ、岩男モーグが壊した壁からは太陽の光が降り注ぐ。村人たちが声をあげて高くかざす銛や剣がその光を反射し、グルンワルドはその光に苦悶して床に倒れ込む。そして上空にいるホルスは太陽の剣をグルンワルドめがけて投げつけ、悪魔は滅び、城も命の珠も消滅する。
 悪魔をやっつけて、めでたしめでたし。娯楽映画の定石にのっとった胸のすく勝利、のはずだが、なんともいえぬ違和感を感じるのはなぜか。考えるに、これは語り口の問題だと思う。『わんぱく王子の大蛇退治』では、巨大なヤマタノオロチに挑む小さなスサノオの戦いの最後は、あわや負けか、という状況からの一撃でようやく勝利に終わる。しかし『ホルスの大冒険』では、弱ったグルンワルドは大勢に取り囲まれ、狼狽した情けない姿を晒した末に苦悶し、床に倒れ伏す。それでもホルスの剣は容赦なくそこへ振り下ろされる。つまり、大勢で弱った一人を取り囲んで殺す。『わんぱく王子の大蛇退治』のヤマタノオロチは、荒ぶり氾濫する川を象徴する巨大な力としての印象が強いが、『ホルスの大冒険』の悪魔グルンワルドは、姿も言葉も行動も擬人化された存在であり過ぎた。それゆえに、集団リンチのような高揚した群集心理の下で一人の人間が処刑されたかのような、実に後味の悪い最期になってしまった。
 なるほど、悪い奴だから仕方がない、殺してしまわなければ、村が滅ぼされてしまう、だから仕方がないともいえる。でもちょっと待って欲しい。それはグルンワルドや Moon King が、自分たちの存在を守るために人間を襲ったのと結局は同じ理屈ではないのか。弱り果て倒れたグルンワルドに太陽の剣を振り下ろすのもまた、「悪魔」の心ではないのか。振り下ろす剣の先にいる「悪魔」は、鏡に映った自分の姿でもあるのではないか。

 こうした困惑と疑問に対して、かくあるべしと、異なる語り口で別の答を提示したのが、『KUBO』でのKuboと Moon King の戦いだと、私は感じる。
 The heavens の追手との戦いで、父母を殺されたKuboは、三つの武具を揃えて遂に Moon King と対峙する。祖父である Moon King に向けて「My family is gone. You killed them」と難じる Kubo の言葉には、両親を殺され奪われた怒りと憎しみが溢れている。その激しい感情は、Kubo に「I kill you」という言葉すら言わせてしまう。激昂した Moon King は巨大な Moon Beast となり、両者の激しい感情を込めた死闘となる。
 『ホルスの大冒険』では、悪魔の力を凌ぐ強大な武器たる太陽の剣が悪魔に打ち勝つ鍵となった。「敵より強い暴力で敵を殺す」ことが問題解決の道だった。しかし、『KUBO』では、強い武器を手に入れて敵に勝利し大団円、とはならない。圧倒的な力を持つ Moon Beast に対しては、三つの武具を以てしても打ち勝つことができない。絶望的な劣勢の下でなおも剣を摑もうと伸ばした手に、両親の形見である毛髪と弓弦があるのを目にして、Kuboは悟りを得る。先に口走った「My family is gone」が必ずしも真実ではないと。Moon Beast が「Everything you loved is gone」と言うのに対し、Kuboは「No. It’s in my memories.」と答える。そしてその悟りは、両親を奪われた怒りや憎しみを溶かしていく。
 Kubo が両親と共に三つの武具を捜す旅で得た価値ある物は、三つの武具ではなく、その旅の過程での両親とのかけがえのない時間と、それを通して成長したKubo自身だ。Kuboは武具を捨て、両親の形見と自らの頭髪を三本の弦とした三味線を手に、Moon Beast と対峙する。精神的に成長したKuboの三味線の力は、Moon Beast を遥かに凌ぐものとなった。怒りや憎しみが溶けていく中で、Kuboの圧倒的な力は、相手を滅するのではなくその一歩先、相手を救済する力へと進化する。
 成長したKuboの三味線の力で、Moon King は記憶を失った無力な人間へと生まれ変わり、Kuboの祖父として、村の一員として、村人たちに受け入れられる。これはあたかもグルンワルドがヒルダになったかのような、まさに悪魔が人間となった物語であり、また「戦争を引き起こし、大切な人たちを殺した者とどう向き合うか」という問いかけでもあると私は感じる。
 深く対立する親と子、あるいは祖父と孫の関係をこのようにして修復することは、幻想譚の中だけでなく我々の生きる現実世界でも起こり得る。人は年老いると同時にしばしば大切な記憶をも失い、我が子や我が孫すら認識できなくなるからだ。そしてそこからでも新たな愛情を紡ぐことはできる、大丈夫、という示唆もここには含まれているのだろう。
 『ホルスの大冒険』での村や村人の描写は、共同体としての喜びや強さを存分に示しつつも、利己・怠惰・猜疑に振り回される弱さや醜さもまた容赦なく炙り出している。その一方、『KUBO』の村人にはそうした描写が殆どなく、終盤でKuboの祖父に対しても憎しみを表さず、思いやりをもって接する。しかしそれは人間性の複雑な現実に目を瞑っているわけではなく、「我々はどう生きたいのか、どういう人間になりたいのか」という目指す道を、お伽話(Fairy tale)を通して示す映画だからだろう。『ホルスの大冒険』で、ホルスは悪魔に対し「村を灼きたくさんの人を殺すような奴」と指弾する。『KUBO』は、そういう悪魔のような相手が無力な老人と化して目の前で途方にくれている時、これを赦して村に受け入れることが出来るのか否かという映画でもある。本項の序盤で、『ホルスの大冒険』は「人はどう生きるべきか」についての強い主張を持った教宣映画、だと書いた。『KUBO』はこの歴史的作品に敬意を払いつつ、その主張に対して果敢に異論を唱えているともいえる。

 (3b)個人と共同体

 『ホルスの大冒険』は、「悪魔と人間」という対立の構図を通して、「個人と共同体」の相互関係や本質を炙り出す物語だ。『ホルスの大冒険』の中盤、ヒルダが幼いマウニに誘われて、婚礼を間近に控えた娘ピリアを訪れる場面は、「悪魔と人間」の狭間で心揺れ動くヒルダの姿を通して、その問題を絶妙に照らし出している。この場面で、ピリアの婚礼衣装に目を奪われ心を奪われたヒルダは立ち尽くすが、衣裳への祝福の縫いとりを促されたその針で指を刺し、女たちに笑われて我に返る。

「何になるの、こんな着物が。」
「無駄よ! いくら飾ったって、そんなもの火をつければ燃えてしまうわ。ただの灰よ!」

 自分の心を惹きつけるものを懸命に否定して出て行こうとするヒルダに、マウニが太陽をあしらった美しい肩掛けを被せると、ヒルダは立ち止まり暫し俯くが、迷いを振り払うように肩掛けを払いのけ走り去る。
 この場面での「無駄よ! いくら飾ったって、そんなもの火をつければ燃えてしまうわ。ただの灰よ!」というヒルダの台詞には、「悪魔と人間」についての二つの比喩が浮かび上がる。ひとつは、ホルスの生まれた村が悪魔の襲来によって炎に包まれ滅んだように、悪魔の圧倒的な力の前に人間は絶望的なまでに脆弱で無力だということ。もうひとつは、人間は時がくれば死んでしまう哀れな存在であり、最後は命が燃え尽きて「ただの灰」になってしまうが、悪魔の命は永遠不滅だということだ。
 人間でありながら悪魔の妹となったヒルダの胸には、グルンワルドが授けた命の珠があり、これが悪魔の人間に対する二つの優位性、つまり悪魔の魔力と永遠の命をもたらしている。これを失う事を心底恐れているヒルダの口から吐き出されたこの台詞は、村の生活や文化に惹かれる自分を懸命に否定し、悪魔の妹たるべき確信を守ろうとする心の現れでもある。
 だが『ホルスの大冒険』は、悪魔の二つの優位性に対して、人間が負けない道を提示する。ひとつは「人間の共同体」が持つ強さだ。ホルスの父は悪魔について「そいつはわしらの醜い心を利用し、人々をばらばらにして、村を攻め滅ぼしたのだ。」とホルスに教えた上で、「力を合わせさえしたら、何も恐れるものはないのだ」と言い遺す。これは本作の中心のテーマでもあり、迷いの森での悟りを経て、村がひとつになれば太陽の剣を鍛え上げ悪魔さえ打ち倒すことができるというクライマックスによって力強く示される。
 もうひとつは、「悪魔の不滅性」に対抗する「共同体の不滅性」だ。ピリヤの婚礼衣装に女たちが集まって縫いとりをしてやる場面の会話などで象徴されるように、村においては女たちは結婚し料理を作り刺繍や縫物をするのが当り前だ。そして、男たちは弓で獣を狩り、銛を持ち魚を獲る。その魚を女たちが吊るして干す。老人は静かに薪を割り、小さい男の子は小さな弓矢で遊びながら、将来の狩りの腕を培う。村においてはそれぞれの型に嵌った役割が決まっている。ひとりひとりは村という共同体を維持するための歯車のようなものだ。人はいずれ死んで歯車が欠けていく。しかし婚姻によって子を成すことによってその歯車は補充され絶えることはない。個人ひとりひとりは消え去っても共同体としての村は不滅の永続性を獲得する。そのことの重要性は、収穫と婚姻を村総出で祝う描写によってより強調されている。
 この「絶えることのない」という概念は、『ホルスの大冒険』の脚本にある「地上の全ての人々と手をむすび、ゆたかな実りを求め実りに奢らず、平和を求め平和に奢らず、絶えることのない、人間の命を生み育てることを誓うか」という結婚式の誓いの言葉にも出てくる。これは脚本から完成映画へ進む過程で削除されたが、高畑勲が『ホルスの映像表現』で書いたところによれば、この誓いの言葉にこそ、「村=共同体」の理想が語られているという。
 そして、一つの理想を押し付ける恐ろしさがここに潜んでいる。夫を大カマスに殺された未亡人のチャハルは、「命を賭けるときは、ひとりではなく全部で」「戦いましょう。同じ死ぬならここで」と、一億火の玉のような危ない台詞をしばしば口走る。共同体の歯車となり、共同体と共に生き、共同体のために子を産み育て、共同体が滅ぶ時は共に死ぬ。それが『ホルスの大冒険』で提示される一蓮托生の「人間が生きるべき道」「人間の幸せ」だ。

 これに対し、『KUBO』における「村=共同体」の捉え方は大きく異なる。Moon King の圧倒的な力に臆せずこれを打ち負かすのは共同体の団結ではなく、Kuboの力だ。そしてそのKuboの力は、父母と心で強くつながれた親子の愛の力でもある。『ホルスの大冒険』が掲げるような、共同体の団結が強い力となって何かを成し遂げる描写は『KUBO』のどこにもない。
 そして『KUBO』で描かれる「個人と共同体」すなわち「Kuboと村」の関係は実に興味深い。10年前に辿り着いた海辺の洞窟で母と暮すKuboは、毎日のようにひとりで村へ出かけて三味線を弾き、折り紙の大道芸をして投げ銭を得ている。その銭は米や魚を買って母との暮らしを支えるためのものであり、生きていくために村とのかかわりは欠かせない。Kuboがひとたび三味線を弾けば、ヒルダの唄の周りに人々がぐるりと集まるように、村人がぐるりと集まって折り紙の物語に熱狂する。しかしKuboがただ村を歩いている限り、まるでKuboが透明人間であるかのように、誰も振り向かず誰も声を掛けはしない。10年もいれば、同い年の仲の良い友達ぐらいはいそうなものだが、その気配もない。唯一Kuboに親しく声をかけるのは、道端に座っている乞食のKameyoばあさんだけだ。村に家を持たず、村人から投げられる金を得て暮らすKuboやKameyoは、普通の村人と同列の存在ではないかのようだ。
 村の通りの喧騒の中にあっても、墓地での賑々しい墓参や燈篭流しの中にあっても、大勢の村人がいるのにKuboの存在はひどく孤独に感じられる。だがこれは、共同体が個人を意図的に排斥しているわけではない。物語の終盤でKuboと祖父が熾烈な戦いを終えた時、村人たちはふたりに暖かな言葉を差し伸べ、懸命に助けようとする。個人と共同体は常にべったりではないが、共同体の存在なくしては個人の日々の暮らしは成り立たない。そして、いざという時には共同体の人々が心強い助けにもなる。『KUBO』が示そうとしているのは、そういう柔軟で縛りのない相互関係の理想であるように思える。
 『ホルスの大冒険』のラストは、ホルスとヒルダが手をつなぎ、その他村人たちみんなと共に、「同じ方向へ向かって」笑顔で駆けていく締めくくりだ。そこには共同体の理想に身も心も委ね、人がどう生きるべきかという定型の鋳型に嵌り、「絶えることのない」人間の命を生み育てる安定した未来が見通せる。一方、『KUBO』ではKuboと祖父が村人たちの善意に囲まれてああ良かった、で終わるのではなく、Kuboひとりだけの静かな場面へと進み、心の中に一緒にいる両親との暖かな喜びで締めくくりとなる。『わんぱく王子』や『ホルスの大冒険』のラストで傍らにいたクシナダヒルダすらここには存在しない。その理由の第一は何よりも本作が親子の物語だからだろうが、男女の結びつきや共同体とのつながりについても否定しているわけではない。母親の魂を宿したMonkeyが死の直前にKuboに言い遺した言葉は「Fly home, Kubo」だった。それは、最後の武具が村にあると知らせるためだが、ここで「village」ではなく「home」と言ったのは、Beetleが死んで自分自身も死に瀕した状況で、ひとり残されるKuboにとっては村こそが帰るべき「home」だという、母としての遺言でもあったのだろう。Kuboは、彼にとってのヒルダを見つけるかもしれないし見つけないかもしれない。彼がこれから歩む人生の長い道のりは自由な幅広い可能性に満ちている。本作のラストはそう言っているように思える。

 (3c)思想と詩情

 『ホルスの大冒険』は「悪魔と人間」という対立の構図を通して「個人と共同体」の相互関係や本質を炙り出す物語だ。前々項と前項ではそうした社会思想映画としての側面を通して、響き合う『KUBO』の物語を紐解いてみた。本項では、思想と両輪を成す『ホルスの大冒険』のもう一つの側面、繊細で複雑な心理と情緒で紡がれた詩情の映画としての姿からも、『KUBO』と響き合い、あるいは反発し合う響紋の姿を追っていく。
 「第一の弦 ―『わんぱく王子の大蛇退治』」の章で、「言葉や台詞で説明すればその繊細なニュアンスがすり抜けてしまうような複雑な心情が、アニメーション表現によって豊かに伝わってくる素晴しさ。私がアニメーションに求める美しさの真骨頂がここにある。」と書いた。
 『ホルスの大冒険』はまさにそうした美しさに満ちている。社会思想映画としての本作の主軸がホルスだとすれば、詩情の映画としての主軸はヒルダだ。その行動、表情、所作を通して見え隠れする、内に秘めた心の狂おしき揺れ惑いと、それと響き合う詩的な映像と音楽が織りなす紋様の、なんたる繊細で複雑な美しさよ。封切から50年を経た今年、改めてフィルム上映でじっくりと観た『ホルスの大冒険』の芳醇な豊かさに陶然となりながら、よくぞこれほどの作品を、と目が潤むのを禁じえなかった。
 だが、それは必ずしも褒め言葉ではない。50年前、封切公開当時に幼児だった私に、こうした魅力を充分に感じとれというのは無理な話だったろう。そしてヒルダの内面の複雑な心情が見えないと、その一見矛盾した言葉や行動がまるで理解できず、詩的な情感を感じとるどころか、物語の進行を追うのにも支障をきたす映画だった。さらには登場人物たちの斜に構えた、判じ物のような台詞の数々。迷いの森を通じた象徴的な惑いの心理描写。思想と詩情の両面において、『ホルスの大冒険』は幼児にとって「戸惑いの映画」だった。親が安心して子に見せられるはずの東映長編動画に何が起きたのか。

 「ここに、超一流の面白さと美しさを誇り、同時に何かを語りかけ、ともに明日をきりひらくために話しあえる、全く新しい異色の長篇動画映画が生れました。」

 これは、『太陽の王子 ホルスの大冒険』公開当時のプレスシートに掲載された長文の解説の導入部だ。そしてその解説の最後は、以下の文章で締めくくられている。
 「『太陽の王子・ホルスの大冒険』はこのような特色によって巾広い年令に直接訴えかけ、『こどもだまし』ではない動画映画となっています。/小学生から学生青年そして大人まで、誰にも文句なく楽しめ、どの世代の胸にも深い感動をよび起さずにはおかないでしょう。/『太陽の王子・ホルスの大冒険』は、家族揃って安心して見られ、親と子が本当に語り合える数少ない映画の一つです。/『太陽の王子・ホルスの大冒険』はあなたに青春の心をよびさまし、いかに生きるべきかを考えさせる映画です。そして再見、三見するたびに、新たな発見と新たな興奮に胸おどらせるにちがいありません。」

 「小学生から学生青年そして大人まで、誰にも文句なく楽しめ」とあるが、幼児はそこに入っていない。東映長編動画では「家族そろって」という宣伝文句がそれまでにも繰り返し使われていた。家族そろってとはつまり、小さい子供が観てちゃんと楽しめる作品ということだ。また特に『ホルスの大冒険』が製作された1965~1968年頃の東映の映画興行においては、東映長編動画が対象とする主な観客層は幼児から小学校低学年位の子供と、その引率者としての大人たちだったと思う。前章で触れた1963年の『わんぱく王子の大蛇退治』は、そうした意味においては理想的な仕上がりの作品だった。子供の精神的な成長の度合いによってそれぞれの層に応じた理解が出来るように作られていたし、またスサノオの父・母・兄・姉それぞれの惑う心が繊細に表現されていて、引率者である大人の観客の心にも響く作りだった。
 だが、そうした「子供のための優れた映画」の既成概念の枠の中で作品を作り続けることに対して、高畑勲は忸怩たる思いを抱いていたのだろう。高畑は『ホルスの映像表現』の中で、劇中歌の録音に立ち会った時を回顧して次のように書いた。「当時『アニメーション』ということばは、高級な実験的な作品にのみつかわれていて、私たちのつくるものは全て「漫画映画」でした。低学年を主な対象にした明るく楽しいはずの「漫画映画」に、まだあまり知られていなかった中世ルネサンス風のひびきをとりいれる。それはいまからみればおかしいほどワクワクすることだったのです。」
 フランス文学を専攻しジャック・プレヴェールに傾倒していた高畑勲が、プレヴェールが脚本を書いたアニメーション映画『やぶにらみの暴君』を学生時代に観たのをきっかけにアニメーション監督を志したという経緯を考えれば、また、人形劇団が戦後の思想教宣の手段として発達してきた中で生まれた『春楡の上に太陽』を原作に選んだという選択を見ても、高畑が東映動画でそれまで作られていた「子供向け」の映画のあり方に不満を燻らせていたのは理解できる。
 そしてそこに時代の趨勢も大きな影響を与えた。『ホルスの大冒険』公開当時の映画評で、荻昌弘は「この『ホルスの大冒険』には、主題や絵柄の発想じたいに、ここ数年日本の若者たちにもてはやされてきた反体制的な〝劇画〟(たとえば『忍者武芸帳』といった)の、投影があると思われる。」と書いている。高畑勲自身も、2001年に書いた「60年代頃の東映動画が日本のアニメーションにもたらしたもの」という論文の中で、「60年代の東映動画作品は、主人公を少年にして基本的に子ども向けに作られたが、大人の物語がもとになったものも多く、さらには、青年だった作り手たち自身の思いも反映し、マンガ(劇画)で青年や大人向けのものが増えるのを追うように、主人公は子どものまま、作品の対象年齢が次第に上がっていった。(この傾向をはじめて示したのは『太陽の王子 ホルスの大冒険』である。)」と分析している。
 屈折した複雑な心情や状況がしばしば小難しく描かれ、社会の在り方にもその矛先が向かう「劇画」調の漫画の台頭は、「子供が読む物」だった漫画雑誌を、高校生や大学生が読む物へと拡張していった。その潮流の影響を『ホルスの大冒険』も少なからず受けたのは明らかだ。プレスシートの解説文にあった「巾広い年令に直接訴えかけ、『こどもだまし』ではない動画映画となっています。」という言葉には、「より質の高いものをめざす」正しい方法が「より大人向けに作る」ことにある、と信じていたであろう当時の作り手たちの意識が反映されているようにも思える。そこには、「わかりやすい映画」がこどもだましで、「難解な映画」が大人向け、という価値観があるようにすら見えてしまう。『ホルスの大冒険』ではヒルダの心理描写が難解だと書いたが、それに限らず、映画全体を見渡すと「伝えるべきことをわかりやすく伝える」というよりも、「伝えるべきことを断片化あるいは比喩化して、それを観客が全て吸収し読み解くように描く」ことを目指しているように思える。
 それは結果として、『ホルスの大冒険』を幼児どころか小学生でも理解しにくい映画にしてしまった。大塚康生は著書『作画汗まみれ』の中で、本作封切時の興行不振に触れて「『太陽の王子』のなかににもりこまれているテーマ、団結や村人内部の矛盾、ホルスの悩み、ヒルダの迷い等は、すべてが高校、大学生くらいの年齢を対象として設定されていることが不振の最大の原因です。」と書いており、創り手側も実際の対象年齢が小学生どころか高校生以上の作品に仕上がってしまったことを自覚していた。
 しかし『ホルスの大冒険』封切当時の新聞広告は、恒例の東映漫画興行(いわゆる「東映まんがまつり」)と同じ印象を与えるもので、「東映まんがパレード」と銘打ち、同時上映は『ゲゲゲの鬼太郎』や『魔法使いサリー』、『ウルトラセブン』といった、テレビの児童向け人気番組だった。「東映まんがパレード」のプレスシートにおいても、子供たちの関心をひくための宣伝方針が強調され、小学校や幼稚園に働きかける提案が書かれている。当然観客側は幼児でも楽しめる安定の映画興行のつもりで劇場へ足を運んだはずだし、私もそのひとりだった。
 『ホルスの大冒険』プレスシートでは小学生から学生青年そして大人まで、「東映まんがパレード」プレスシートでは小学校や幼稚園の子供、そして実際の映画は高校生以上を対象に設定。この混乱は一体何なのか。
 深沢一夫は後年のインタビュー(ロマンアルバム・エクセレント『太陽の王子 ホルスの大冒険』[徳間書店 1984年] に掲載)で、脚本を依頼された時を回顧して次のように語っている。「これが、なんか話が複雑でね。要するに企画は組合関係から出たんだけど、東映の本社の方はウンと言わない。そして、子供相手のマンガ映画なんだから、若い人達の意見をあんまり入れないように、なるべく面白い脚本にしてくれって言われて、東映の寮かなんかにカンヅメになって書いた。」
 この第1稿は、流れ星の降る夜に捨て子を拾ったガンコじいさんが、長老の「不吉な悪魔の子じゃ」という言葉に従い、その子を小舟に乗せて川へ流すという導入部から始まり、そのホルスが山の神に拾われて成長し、村人たちに笑いと富をもたらすために旅に出る、という展開だったという。だがこの従来型の漫画映画に近い第1稿に高畑は難色を示し、原作に近い形で高畑が書いた第3稿の物語をベースに、深沢が改稿して最終的な第5稿がまとめられた。
 簡単に言えば、経営側が望む形と、現場で製作を担う創り手たちが望む形との間に大きな乖離があり、それが解消されないまま製作が進み作品が完成してしまったのが、映画公開時の混乱の原因だといえる。
 本稿の冒頭で、幼い頃に親に連れられて行った映画館が、劇場映画との最初の出会いであり映画への入り口だという意味のことを書いた。それは私以外の多くの人にとっても同じだろう。幼児の頃に初めて触れた数々の劇場映画は、私と言う人間の心の在り方そのものに強い影響を与え、映画の記憶は私という人間の一部を成している。だからこそ、大人向けの映画よりも、幼児向け、子供向けの作品こそ真に「質の高い映画」であるべきだと強く思う。そしてここで私が言う「質の高い映画」を達成する道は、『ホルスの大冒険』がやった「より高い年令に向けて作る」ではないことは無論だ。
 しかしながらそれと同時に、商業映画は、入場料を払って客席に座ったお客さんの全員に満足して帰ってもらえるような作品を目指すべきだと私は考えている。子供向けの映画は、引率する大人の観客にも満足して帰ってもらえる映画であって欲しい。また、そうであってこそ、親子で観ることに大きな価値が生まれると思う。

 「子供に向けて作られた、本当の意味での子供のための質の高い作品」と「子供を引率する大人の心にも響く作品」を両立させた映画こそ、私が考える「理想の子供向け映画」だ。そして『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』はまさにそうした映画だった。『ホルスの大冒険』の詩情に強く心惹かれながらも、幼い観客を軽視した姿勢や、思想性の押しつけがましさに対して煮え切らない思いを抱いていた私に対しての解答のような映画だった。

 『ホルスの大冒険』の詩情表現を難解さから切り離し、観客の心の中に沸き起こる波そのものを引き出し、それを元に新たな情緒表現を生み出したのが『KUBO』だともいえる。
 『ホルスの大冒険』との対比で最も印象深いのは、Kuboと母の別れの場面だ。恐ろしいSistersに追われ危機迫るKuboの元へ駆けつけた母が、Kuboの三味線を弾くと、衝撃波のような強大な光芒が発生し、Sistersは吹き飛ばされる。それでもなおSistersが再び迫り来る中で、母はKuboにその大事な三味線を渡し、三つの武具を見つけるように伝えると、魔法の羽根を与えて空へ送りだす。見送る母、そして「Mother, Mother」と叫びもがきながら、羽根で空高く飛ばされていくKubo。母は徒手でSistersに向かっていくが、その手に宿る光芒は、さきほどの三味線の光芒に比べれば絶望的なまでに小さい。空高くからの視点で俯瞰で捉えられる母とSistersは、両手に光る光芒を引きながら激突し、巨大な閃光の中へ消えていく。劇場でこの場面を観ながら、私の心には『ホルスの大冒険』終盤の印象的な場面が浮かび上がった。
 『ホルスの大冒険』では、吹雪の中で小熊のコロと共に意識を失っていた幼いフレップを助けるべく、ヒルダは自らの命を守っていた大切な命の珠をフレップにかけてやる。フレップとコロは珠の力で浮かび上がり、気付いたフレップはヒルダの名を懸命に呼びながら空高く飛ばされていく。珠を失ったヒルダは雪狼の群れから攻撃を受けて剣で応戦するが、フレップが無事に飛び去ったのを見届けると、迷いを振り払った笑みを見せて抵抗を止める。映像は高い視点からの俯瞰となり、ヒルダは雪狼の攻撃を次々に食らうままになり、雪上に突き倒される。
 『KUBO』では、三味線の絶大な威力と、それでも簡単に倒せないSistersを対比した上で、唯一の対抗手段であるその三味線を惜しげもなく我が子に渡してしまう母。『ホルス』では、悪魔であることに必死でしがみつく理由であったはずの、不滅の命と悪魔の加護をもたらす命の珠を惜しげもなくフレップにかけてやるヒルダ。いずれも、死を覚悟しての行為だ。
 『KUBO』の脚本段階では、母がKuboを空に送り出した後、Sistersは鎖鎌と剣を取り出し、母も自らの剣を取り出して振り上げ、それを空から見下ろしているKuboの眼は服で覆われて何も見えなくなり、画面が暗転して次の場面へ移るという展開だった。ここでの剣は、『ホルスの大冒険』でヒルダが振るっていた剣の印象からの名残かもしれないが、それを脚本から完成作品へ進む過程で剣をなくし徒手で立ち向かう展開に修正したことによって、母が三味線をKuboに渡したことの重みが『ホルスの大冒険』で命の珠を渡した重みと強く重なり合うようになった。俯瞰でヒルダにぶつかっていく雪狼の曳く白い残像と、俯瞰で母とSistersが激突する時に光る手が曳く光芒の残像もしかり。両作のこの場面の「意味」は異なり、ヒルダと母の心情も異なる。されど、そこで表現される詩的な情緒、観る者の心の中に沸き起こる波は、強く響き合う。
 先に、詩情の映画としての『ホルスの大冒険』の主軸はヒルダだと書いた。映画の情緒そのものがヒルダのふたつの心の揺れ惑いと強く共鳴しているが故に、ヒルダの心の複雑さは映画の難解さとなって幼児を惑わす。ヒルダの中の悪魔の心と人間の心は対立して揺らぎ、絶えず葛藤している。そして竪琴を弾き歌い柔らかな情緒をふりまくヒルダと、ホルスの斧を手に魔を操り愚者を唆し、またホルスに向かい剣を振り回すヒルダ、その明暗・硬軟の落差が更に混乱を振りまくが、その明暗と硬軟のいずれもが悪魔としての行動であることが混乱を深いものにしている。そしてヒルダの険しい表情のみならず「笑顔」が幼児に更なる戸惑いをもたらす。ホルスと初めて出会った時の笑顔、村で歌を歌う時の笑顔、ドラゴにホルスの斧を与えた時の笑顔、いずれも欺瞞に満ちた偽の笑顔だ。
 『KUBO』では、Kuboの母の心は対照的な二つの形を持っていて、それはしばしば表面にくっきりと表れる。ひとつは、Kuboの元へ駆けつけ雄叫びを上げながら三味線を弾いた際に見せた、すっくと立った鬼神のような猛々しい姿と眉の吊り上がった表情であり、もうひとつは、その直後にKuboに寄り添った時に見せた、慈愛に満ちた柔らかな姿と眉の下がった優しい表情だ。体の表情と眉の角度を極端に変化させて全身で表現されるこの二つの心は幼児にも分かり易く、また偽りのない心の中の形そのままの発露なので混乱を招かない。またそれが単に記号的な表現に留まらず繊細なニュアンスを伴って表現されることによって、幼児にも大人にも心の深くまで響いてくる。
 そしてヒルダと違い、この二つの形は何の矛盾もなく一つの心として共存している。その激しさも柔らかさも、我が子への愛情の発露だからだ。Kuboの母の出自は The heavens(いわば悪魔)の一人であり、母はその家族のあり方を「冷たく、硬く、完全な」と形容しているが、人間のHanzoと出会い、柔らかく暖かな「Humanity」に満ちた人間の心を知りそれを自らの中へ受け入れたことによって、冷たく硬く完全な The heavens の心はおしのけられ、The heavens の戦士としての強靭な精神力と猛々しさは家族を守る愛の力となって芯に残っているのだろう。
 これに先立つ、Kuboと母が夕食を食べた後の場面でもまた母のふたつの心の形が顔を出している。ここではKuboと会話する内に心配のあまり興奮して猛々しい心が顔を出して、Kuboの両肩を揺さぶりながら強い口調で危険を言い聞かせてしまう。しょんぼりしてしまったKuboに対し、やり過ぎてしまったと我に返った母は、木彫りの猿を手に持ってかざし、おどけた調子で猿が喋る声真似をして、Kuboの心を優しく包み、やがて母子に笑顔が戻る。ここは本作で私が最も好きな場面のひとつだ。(日本語吹替版では、おどけた口真似は踏襲されておらず、オリジナル版のニュアンスは失われている)。
 子供が観て戸惑わず、されど「子供騙し」でもなく、子供も大人もそれぞれに繊細な情緒に心を揺らされる。『KUBO』はそういう映画だ。

 (3d)結び

 以上の(3a)(3b)(3c)を通して、『ホルスの大冒険』と『KUBO』が私にとってどう響き合うのか、それは私にとってどういう意味を持つのか、心の中に混沌と渦巻くものをなんとか整理してみた。結果として『ホルスの大冒険』に対して少なからぬ批判も並べた形になってしまったが、それは『KUBO』との対比に主軸を置いた結果として生じたものに過ぎない。『KUBO』の創り手もまた、『ホルスの大冒険』に強く心を動かされたからこそ、こうした相互関係が生れたのだと思う。両作の相互関係を考える上では、レフ・アタマーノフの『雪の女王』との三角関係なども欠かせない要素だと思うが、ここでは省略する。本章では私にとっての核心である三項に絞ってまとめた。
 1968年の「東映まんがパレード」興行において、『ゲゲゲの鬼太郎』や『ウルトラセブン』など、当時テレビで放映中だった人気番組が子供を引き寄せる効果は少なくなかった。家のテレビで毎週見るおなじみの番組を、劇場へ来てカラーの大画面で観て、また家へ帰ってからまた毎週見るという安定の連続性があった。しかし、同時上映の東映長編動画『太陽の王子 ホルスの大冒険』はそれらと違い、スクリーンのカーテンが開くと同時に、全く未知の新しい物語世界への扉が開き、その中へ入っていけるものだった。そしてエンドマークが出てカーテンが閉まると共に扉は閉まり、その物語世界ともお別れしなければならない。映画館の中にしか存在しない物語世界、その出会いと別れが心を躍らせ心を締め付ける感覚、それは同時上映のテレビ作品では決して得られなかったものだ。子供向けの劇場映画で、既存の作品やキャラクターの延長ではないオリジナル、しかも安易な続篇もなくその一作できっちり完結している映画。それは当時も現在も決して多くはない。そして『KUBO』が私に東映長編動画を強く想起させる理由のひとつもここにある。


(4)第三の弦 ―『ちから太郎』と親子映画

 『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』を観てまだ間もない頃。Sistersが初めてKuboの前に姿を現す場面を心の中で反芻していたときのことだ。不気味な笑い声と共に、宙に浮きながら迫って来るSisters の姿に重なるように、私の心の中にすーっと浮き上がって来た記憶があった。山中で宙に浮きながら現れ、笑い声と共に迫る雪女。
 それは『ちから太郎』という人形劇映画の一場面だった。映画館で上映される普通の商業映画ではなく、親に連れられて小さい頃にホール上映で観た作品だった。その時観たきりなので、記憶は極めて曖昧で茫洋として、本当に雪女が出て来たかどうかについてすら確信がもてないほどだった。調べてみると、『太陽の王子 ホルスの大冒険』が公開された1968年に製作された作品で、ホルスと同じ夏に読売ホールで初上映されていた。監督はなんとあの家城巳代治で、脚本には山形雄策が参加していた。
 半世紀前に観て内容も良く覚えていないような映画が、なぜ『KUBO』を観たら記憶の海の底から浮かび上がってきたのか。不思議だった。その内容を確認してみたくなったが、簡単に見る手段はない。製作元などがフィルムの貸し出しを現在もしており、いわゆる幻の映画ではないのはわかったが、とりあえずは脚本を古書で入手して、調べてみることにした。

 (4a)瀬川拓男と太郎座~親子映画運動の勃興

 脚本の内容に入る前に、人形劇映画『ちから太郎』が生れるに至った流れをまとめておく。『ホルスの大冒険』と同じ1968年の夏に初上映された『ちから太郎』の原作と共同脚本は、瀬川拓男という人物だった。今年(2018年)亡くなった高畑勲監督のお別れの会で、宮崎駿監督が「開会の辞」の中で高畑との出会いについて語った際に、瀬川拓男の名前が出たのをご記憶の方も多いだろう。宮崎が高畑と出会った1963年、瀬川は人形劇団太郎座の主宰者で、宮崎ら東映動画のスタッフとも交流があったらしい。
 瀬川拓男(本名・瀬川拓夫)は1929年に東京で生まれ、戦争中の1942年に家族と共に満洲へ渡った。父知一良と共に1945年の終戦もそこで迎え、混乱の中で襲い来る暴民から老婆を守ろうとした父子は瀕死の重傷を負ったという。苦境を乗り越え1946年に父の郷里である長野県上田市に辿りついた瀬川は、1947年には「ともだち座」というたったひとりの劇団を作って、作久地方を中心に紙芝居や人形劇を持って回り始めた。
 瀬川の父知一良は、戦前から社会主義運動に身を投じており、戦後は拓男にマルクス・レーニン主義の冊子をとりだして与えたという。父からの影響は大きかったが、満洲での苦境の中で周囲の日本人の大人たちの態度に対して強い不信を抱いていた瀬川は、子供の世界である人形劇へ向かった。やがて文化工作隊を目指して劇団民衆座を1949年に結成するが翌年に解散。1951年には、東京で創立準備が進んでいた「人形クラブ」に瀬川も上京して参加するがこれも翌年に解散し、新たに劇団「人形座」が創立された。
 この頃、瀬川は後に妻となる松谷みよ子と出会う。当時松谷は処女作『貝になった子供』を出版したばかりだった。1953年に人形座を出た瀬川は、「みどり会」という街頭紙芝居集団を経て、紙芝居の作画家をしながら、松谷との結婚の準備や、自ら創立する新しい人形劇団「太郎座」の構想を練った。1954年に始めた仲間たちとの共同生活には紙芝居作家たちが出入りし、その中にいた岡本登(後の白土三平)も共同生活の仲間となった。
 地域の子供会への参加で活動を始めた太郎座は、1955年にはNHKに『どじ丸』という動く絵ばなしで出演を果たすが、翌56年には瀬川と松谷は信州へ民話の採訪に入り、岡本登らは太郎座を離れた。57年にはNHKで動く絵ばなしとして『ちから太郎』などで出演。また瀬川と松谷による民話採訪の成果を『信濃の民話』(未来社)として刊行し、翌年には『秋田の民話』(未来社)も刊行。
 太郎座はNHK出演やホール公演を続け実績を積み重ねていった。1960年には、松谷みよ子が民話採訪の成果を基にしてまとめあげた長編童話『龍の子太郎』(講談社)が出版され、それを太郎座の第一回本公演とするための脚色を瀬川が始めた。松谷は『龍の子太郎』のあとがきの中で、「私は、祖先たちがのこしていったものを、埋もれさせてはいけないとおもいました。こまぎれになっている無数の小さなはなし、その中から、力づよいものをつかみだし、ほんとうに日本の土の中から生まれた、いきいきとした民話の主人公をかたちづくりたい、そして日本の子どもたちによんでもらいたい。」と創作の動機を語っており、その強い意志をさらに膨らませたかのような瀬川の脚本は長大なものになっていった。
 1961年になり、7月にNHKへ人形劇『たつの子太郎』で出演したのを弾みに、11月には初の太郎座本公演『たつの子太郎』が砂防会館で初演されたが、これは三時間に及ぶ大舞台となった。当時大学生で、後に太郎座に参加した久保進は、「まず、そのスケールに驚かされた。10メートル以上の大きな間口を全面的に使いながら、人形劇はどうしても平面的になりがちという常識を破った、奥深く立体的な舞台装置。50人を越える圧倒的な登場人物。比重正しく配置された音響と色彩。そして洗練された人形美術。」と初演を観た驚きを書いている。
 1962年には松谷の『龍の子太郎』が国際アンデルセン賞優良賞を受賞し、1963年にはTBSの「杉の子劇場」枠で太郎座の『竜の子太郎』が八回連続の形で放映された。1964年には舞台公演版の『たつの子太郎』も再演されている。この60年代前半頃から瀬川と東映動画のスタッフの間に接点があったのは前述した通りだが、その時期に『龍の子太郎』が様々な形で出版・上演・放送されて注目を集めており、1965年3月に大塚康生東映長編動画の作画監督を務めるにあたり、当初案の原作として『龍の子太郎』を選んだ背景にはこうした状況があった。
 長編動画の企画案として検討する過程で、松谷や瀬川との間に話し合いが持たれたか否かは定かでなく、最終的には『春楡の上に太陽』が原作として選ばれ、この時は『龍の子太郎』の映画化はならなかったが、翌1966年には映画監督の道林一郎が人形劇映画としての映画化を太郎座に申し入れてきた。いわゆる「教育映画」「短篇映画」といわれる領域で仕事をしていた道林の個人的な熱意から発した話だったが、1965年に劇団四季の舞台を映画化した『王様の耳はロバの耳』(製作・日生劇場映画部)の監督を務めた実績もあって、瀬川はその場で全面的な協力を約束したという。
 企画は道林の友人であるプロデューサーの滝沢章生が所属する共同映画教育映画部が製作するという形で進んでいった。当然これは大手の映画会社が配給する商業映画ルートに乗せる映画ではなく、各地の教育委員会やフィルムライブラリーに販売するのを主目的にした16ミリ映画だった。松谷みよ子はこの企画に少なからぬ躊躇を抱いていたが、それは第一にあまりにも少ない製作費だった。映画向けに写実的なセットを組んで撮るのではなく、舞台向けの象徴化されたセットで、一部のアップ以外はカメラ1台で舞台を正面から撮るという。それで果たして映画として成功するだろうかという松谷の疑念は当然でもあった。準備期間の短さや、当時多忙だった太郎座のスケジュールとどう調整するかという問題も悩みの種だった。
 それでも松谷が映画化に踏み切ったのは、『たつの子太郎』を山間僻地の子にも見せられるという魅力が大きかった。『たつの子太郎』の舞台を遠方へ持っていくにあたり、総人形体数は53体に及び、裏方や照明まであわせると出演者は膨大で、上演場所も普通にやって間口10メートル、最低でも5メートルは必要であり、どこでも簡単に上演とはいかず、最も見せたい山奥の子どもたちに見せることはできない。しかし、16ミリのカラー映画ならば、どんな山奥の小さな学校でも、双方にさほどの負担なくこの芝居を見てもらうことができる。
 補足すると、1966年のカラーテレビ普及率は0.3%で、テレビは白黒が当り前だった。この時代を実際に幼児として体験した私の実感として、カラーの動く映像は映画館(あるいは何らかのフィルム上映)でしか見ることの出来ない時代だった。色彩豊かだったという舞台『たつの子太郎』を、全国各地に広く届けることのできるカラー映画の意義は深かった。

 カラー人形劇映画『竜の子太郎』が完成した頃、製作会社である共同映画教育映画部に新たな波が訪れていた。かつて白黒版で発売したロシアの名作アニメーション『せむしの仔馬』を、1966年4月にカラー日本語版『せむしのこうま』として発売していたが、8月に埼玉県大宮市の子ども会が主催する「親と子の映画劇場」でこれを上映したところ、3日間で4500人の子どもと親が訪れたという。これは共同映画の埼玉出張所が大宮市の教職員組合、同市の視聴覚ライブラリー、大宮子ども連盟に働きかけて実現させたものだった。
 『せむしのこうま』はロシアの民話「イワンの馬鹿」など複数の物語をまとめて新たな作品として創造された映画であり、そうした意味では『龍の子太郎』と似た成り立ちを持った作品でもあった。「親と子の映画劇場」の成功を受けて、8月に完成した人形劇映画『竜の子太郎』を11月に埼玉県春日部市で市の教職員組合主催で上映したところ3000人を集め、12月には川口市でも同様の取り組みで3600人を集めた。親子で安心して観ることのできる映画、というのがこの運動の芯であり、当時書かれたものを見ると、テレビの子供の時間帯に溢れる怪獣物に対しての懸念がその動機の一つだったようだ。1966年はいわゆる怪獣ブームが勃興した年であり、66年秋の夜7時台には『ウルトラマン』『マグマ大使』『悪魔くん』などが放映されていて、私も含め多くの子供たちがテレビの怪獣番組に夢中になっていたから、親や大人たちがそうした状況に心配したというのも、今になれば痛いほど良くわかる。
 上映の反響としては「今の子供たちはテレビのいわゆる怪獣ものなどカッコいい物に影響されて、子供たちの純真な気持を情操的に高めていく映画が少なくなった。先生やお母さんたちが子供たちと一緒になって見た映画について話し合って、お互いに心から交流できる映画を、これからもどんどん作って欲しい」という希望が圧倒的に多かったという。
 こうして以後長きに亘り続く「親子映画」と呼ばれる運動が始まり、『竜の子太郎』はその第1作に位置づけられた。直後の12月に共同映画が倒産するという危機が訪れたが、『竜の子太郎』の観客動員が多かったおかげで共同映画はすぐに再建の道を歩み、翌1967年には親子映画第2作と銘打って『黒姫物語』が製作された。これは劇団太郎座、長野映研、共同映画教育映画部の共同製作という形だった。
 親子に見せるホール上映の映画会を前提に企画された『黒姫物語』では、瀬川拓男が信濃の黒姫伝説を基に原作を書き下ろし、監督として家城巳代治、瀬川拓男との共同脚本に山形雄策、撮影に中尾駿一郎という、劇場用映画の領域で腕を揮っていた顔ぶれが招聘された。またここで明確になってきているのは、瀬川、家城、山形、中尾といった面々はいわゆる左翼系と呼ばれる創作者たちだということだ。
 そもそも共同映画という会社自体が、1947年に結成された労働組合映画協議会(労映)の事業部門を母体として、1950年に株式会社共同映画社として設立されたものだった。労映の活動の最大目標である「労組や大衆運動の組織化と発展、運動や闘いに、映画のすべを武器として役立てていく」を受け継いだ共同映画社は、山本薩夫の『暴力の街』(1950)の上映協定を大映と結ぶなどの実績を上げながら、劇映画や16ミリフィルムの記録・教育・教材映画の貸出・普及活動などを進め、労働者や農民を題材とした労農映画といわれる作品群の普及にも努めた。1963年に関連他社と合併して共同映画株式会社となった際の設立趣意書では、テレビの飛躍的な普及の中で「ゴールデンアワーの60%をアメリカでしめているテレビの実情」を挙げ、日本の青少年を骨抜きにする退廃文化の洪水を問題視し、日本民族の伝統文化を損い、民族の独立という最も崇高な道を損う方向にあると説いている。日本共産党が第八回大会での「わが党当面の要求」の中で、「アメリカ帝国主義の文化侵略」に反対し、「民族的文化の普及と発展」に努めると書いているのを受けた形で、共同映画は民族的文化の根源ともいうべき民話の映画化に取り組み、それが『竜の子太郎』や『黒姫物語』を通しての親子映画運動として進められていったということだろう。
 あえて大雑把な物言いをしてしまえば、観客側の親たちの「テレビの怪獣ものに対する懸念」と、製作者側の「テレビのアメリカ退廃文化への懸念」から生まれた、両者の「子供たちに本当に見せたい良い映画」を望む心、それが合流したのが親子映画運動だともいえる。「親と子の映画劇場」という呼称は、目的意識を明確にした「親と子のよい映画をみる会」となり、完成した『黒姫物語』は1967年12月に文京公会堂で6500人を動員したのを皮切りに、各地で次々に上映され好評を博した。
 1968年には、この運動を全国的に発展させるための中央機関として「親子映画運動推進連絡会」が成立し、その幹事団体として東京都教職員組合、東京母親連絡会、日本子どもを守る会、共同映画株式会社が選出された。各地に「親と子のよい映画をみる会」を組織的に発展させる動きの中で、親子映画第3作『ちから太郎』の製作が開始された。

f:id:latitudezero:20181227192723j:plain

 (4b)『ちから太郎』の誕生

 『ちから太郎』は、前作『黒姫物語』のメインスタッフを踏襲し、原作・瀬川拓男、原作協力・山形雄策、家城巳代治、脚本・山形雄策、瀬川拓男、監督・家城巳代治、撮影・中尾駿一郎という顔ぶれで形作られた。『黒姫物語』の製作は劇団太郎座、長野映研、共同映画教育映画部の共同だったが、資料によってはこれをまとめて「『黒姫物語』製作普及委員会」と書かれているものがあり、次作の『ちから太郎』では明確に「『ちから太郎』製作委員会」という名前で製作されている。
 「『ちから太郎』製作委員会」は、共同映画株式会社、株式会社九州共同映画社、中国共同映画株式会社、株式会社関西共同映画社、名古屋共同映画社、北陸共同映画株式会社、有限会社長野映研、北海道共同映画新社、人形劇団太郎座、親子映画運動推進連絡会、という顔ぶれで、全国的な協力関係と期待の下に企画が進行したことが窺われる。
 太郎座が民話『力太郎』を題材としてとりあげたのは、1957年にNHKで「動く絵ばなし」として放送した『ちから太郎』が最初だったという。また、1960年の太郎座の総会資料には、松谷・瀬川の出版関係の執筆予定として、民話の再創造による長編童話として『前がみ太郎』『たつの子太郎』『日本一の三人太郎』『どじ丸物語』の四つが挙げられており、この中の『日本一の三人太郎』とは『力太郎』の物語だ。瀬川は後に「民話小説」と称して長編童話『小説 力太郎』(朝日ソノラマ/1970年)を発表しており、60年代からすでにその構想を練っていたと思われる。
 親子映画第3作が『ちから太郎』となったのは、そうした意味では自然な流れだったのだろう。元となった民話『力太郎』はごく短いもので、これを1時間強の映画に仕立て上げるための物語の検討にまず時間がかけられた。映画の原作は瀬川拓男となっているが、原作協力として山形雄策と家城巳代治の名も挙げられており、最初は瀬川、山形、家城、それに撮影の中尾駿一郎や共同映画のプロデューサーも参加してストーリー検討会が持たれ、そのストーリーが出来上がったところで共同映画の支社長会議が開かれ、第2回の検討会が持たれた。
 登場する三人娘の取り扱いや、化け物の表現、力太郎、石子太郎、御堂太郎の性格の違いや共通点など、論点は多岐に亘り、現在の子供たちが要求している映画とは何かという問題に議論は沸騰したという。検討会で出た意見をとりまとめ、それを反映する形で山形と瀬川が脚本を共同執筆し、それを更に検討して稿が重ねられていった。
 本作の脚本の特徴は、瀬川の原作を芯にして製作中枢チームによってストーリーが検討され、ストーリー完成後は製作委員会に名を連ねる各方面からの意見がさらに多数加えられ、それを受けて脚本が執筆された点にある。それは、親子映画運動という目的意識と、製作委員会という製作形式がもたらしたものだった。結果として、元の民話『力太郎』とは様々な点で異なる独自性を獲得することになった。

 では『ちから太郎』の脚本の内容を紹介していく。冒頭は絵巻風な童画と共に語り歌で始まる。北の山奥の小さな木こりの家に不思議な子供が生まれ、その子はみるまに大きくなったが、しゃべることも歩くことも出来ず、口を開けたまま天井を眺めていたり、いびきをかいて眠ってばかりいた、と語られる。メインタイトルの後は秋の夕暮れで、ちから太郎のおっかあが大きな背負籠に山ほど芋や豆やキノコをいれて帰り、かまどに火を入れて食事の支度をする。そこへ木こりのおとうも帰ってくる。ちから太郎は近所の子供たちから馬鹿にされ、おとうとおっかあが色々話しかけても言葉を発せず、食事を知らせる大がまの音にだけ反応する。それでもおとうは、あっはっはと笑っている。
 翌朝、ちから太郎を背負ったおとうと、背負籠を肩にしたおっかあは村の社にお参りをする。そこには百貫の鉄の棒が祀ってあり、社には鬼や山姥を退治する大男の絵馬が下がっている。太郎の先祖に大男がいて、その鉄の棒を振り回し、辺りの鬼や化け物を退治してここに村を開いたのだという。おとうは太郎を背負って山の上に向かう。秋景色の続く山々は紅葉が美しい。おとうは「朝のでがけに 山やま見れば 黄金まじりの 霧がわく」と歌いながら歩いていく。おとうは木を伐る合間に太郎を立たせようと試みつつ山で時間を過ごす。
 時は経ち、枯れ果てた秋に早くも雪が降るようになって、村は乏しい食糧に苦しめられた。太郎に食べさせるものもなくなったが、すでに山で食べられるものは木の皮や草の根すら取り尽くされた後だった。おとうはまさかりを手にとって、だれも行かない山の奥へ行ってくると言い放ち、雪が降る中をでかけていく。
 やがて日が暮れ、雪山の奥に入ったおとうの前に雪女たちが現れる。遠く近く雪女の笑い声が響き、みるみるあたりは吹雪に変わる。雪女が乱舞する中、雪の中に倒れたおとうはちから太郎の名を呼んだ後、がっくりと動かなくなる。するとちから太郎の家では、それまで一切物を言わなかった太郎が突如「おとう!」と大声をあげる。太郎は鉄の棒で立ち上がると言い出し、驚いたおっかあが村人の力を借りて百貫の鉄の棒を運んでくると、太郎は片手でそれを突き立ててその巨体を立ち上がらせた。
 鉄の棒を杖に山を登っていくと、雪女の笑い声と共に山は吹雪となる。襲い来る雪女たちに対し、太郎は鉄の棒を振り回しながら駆け出し、雪女たちは悲鳴を上げてちりじりになり山奥へ逃げていく。吹雪が止んで一筋の光が差してくる中で、太郎はおとうを見つけるとその広い胸にがっしりと抱きしめる。見る間に湯気が立ち雪が融け、おとうは目を開ける。太郎はおとうを高々と抱きかかえ、跳ねまわり飛びまわる。

 以上が脚本の序盤、全体の4分の1あたりまでの展開だ。そしてこれは『KUBO』序盤の4分の1を強く思い起こさせる。メインタイトルの後はどちらも食事の支度があるが、『ちから太郎』では物言わず立ち上がらずの太郎のために親が、『KUBO』では日中は言葉も発せず抜け殻のような母のために子が、食事を作って世話をする。そのような状態であっても深い愛情を注いでいるのが伝わってくる描写もまた重なり合う。そして、日暮れ後に父が(子が)、宙に浮き笑いながら迫る雪女(Sisters)に襲われて危機迫るのを遠くから感じ取った太郎(母)は、突如「おとう!」(「Kubo!」)と声を発し、それまでの腑抜けに見えた姿からは想像出来ないような力強さでおとう(Kubo)のもとへ駆けつけ、雪女(Sisters)と対決する。
 『KUBO』の創り手が『ちから太郎』の影響を受けたか否か、それはこれだけでは断言できないが、ここで表現されている親子の愛の形は、強く重なり合い響き合う。少なくとも私にとっては、『ちから太郎』こそが『KUBO』とつながる三本目の弦だ。宙に浮き笑いながら迫りくるSistersのイメージが、細い一本の弦を通して、記憶の海の底に眠り続ける『ちから太郎』と共鳴し、その存在を教えてくれたことに、少なからぬ驚きと畏怖を感じた。「幼児の頃に初めて触れた数々の劇場映画は、私と言う人間の心の在り方そのものに強い影響を与え、映画の記憶は私という人間の一部を成している。」という前章で書いた言葉を、そのまま証明するような出来事でもあった。

 元の民話『力太郎』は口伝なので様々な形があるが、その主な形は、怠け者の爺と婆が年中垢だらけになっていて、もうこの年では童ができるわけはないからと大量の垢を体から落として、その垢で童をつくるという出自で、こんび太郎と名付けられる。(えじこの中に寝たままなので、えじこ太郎と名付けられる形もある)。太郎の並外れた大食いで苦労する爺婆に対し、力業の修行にでるから百貫目の鉄棒を作ってくれと頼み、その鉄棒を持って旅に出るという展開だ。生まれてから突如鉄の棒を欲しがるまでの間に全く言葉を発しないという設定は元の民話に見当たらないが、1965年から66年にかけて出版された童話集などで子供向けに整理した版ではそうした設定がある。
 しかし、雪女に襲われた父を救うために突如言葉を発し立ち上がるというのは、この人形劇版『ちから太郎』脚本独自の展開だ。ここで使われた雪女のイメージは、松谷みよ子の『龍の子太郎』で太郎の行く道を襲う雪女に源泉があるのだろう。襲われ倒れた太郎の危機を知り、少女あやが遠くから駆けつけて雪の中から助け起こすという展開は、『龍の子太郎』の原作のみならず、瀬川拓男が脚本を書いた人形劇舞台版や人形劇映画版の脚本にも共通して存在している。
 『ちから太郎』では、父を救うために立ち上がるという展開のために、鉄の棒を作るのではなく、既に存在する鉄の棒が新たに設定されているが、村の社に祀られている先祖の鉄の棒は、『KUBO』の魔法の兜が村の鐘として吊るされていたという設定と重なりあう。また、「朝のでがけに 山やま見れば 黄金まじりの 霧がわく」という歌で描写される朝の道行きは、『KUBO』でKuboが朝の道行きで通る穀物畑の詩情に通じるものがある。太郎がおとうを抱きしめるとおとうが目を開くという情感も、『KUBO』でMonkeyがKuboを抱きしめると息を吹き返すという情感と重なりあう。数ある『力太郎』の物語の中でも、特にこの人形劇映画版『ちから太郎』の独特な部分が『KUBO』と強く響き合っている。
 そして雪女(Sisters)との対決の後は、『ちから太郎』ではおとうが救われた喜びから春の訪れへとつながっていくが、『KUBO』では母を失った悲しみから吹雪の中での道行きへとつながり、全く逆の情緒へ流れていく。

 さて、『ちから太郎』脚本での以後の展開だが、元の民話に沿いつつ独自の改変が加えられている。元の民話では、こんび太郎が鉄の棒を手に入れて旅に出た後の展開は、まず赤い御堂を背負った御堂こ太郎と出会って対決しこれを第一の家来とし、次に対決した石こ太郎を第二の家来として、城下町に辿り着くと、泣いている娘がいる。そこでは月の朔日になると化け物が現れて女の子をひとりづつ連れて行くという。三人は化物退治をすることになるが、夜になって現れた化物は、御堂こ太郎も石こ太郎もひと呑みにする。こんび太郎は百貫目の金棒で戦いをいどむが、金棒は化物に曲げられてしまう。後は取っ組み合いの戦いとなり、なかなか勝負はつかなかったが、化物の大ふぐりを蹴飛ばすと、鼻から御堂こ太郎と石こ太郎を吹きだして絶命する。こんび太郎は助けた一番娘の婿となり、あとの二人も二番娘三番娘の婿となって、こんび太郎は里の爺婆まで引き取って後生安楽にくらす。

 『ちから太郎』の脚本では、大食いのちから太郎を食べさせるための苦労でおっかあは倒れ、おとうも無理をしていたので、力太郎は自分の力で飯をくうために旅に出る。そして出会って対決した石子太郎・御堂太郎を「家来」にするのではなく、兄弟分とする。「では、三人の太郎、兄弟の約束だ」「おーッ!」と三人太郎は鉄の棒、石、お堂をかつぎあげて、がちんとぶつけ合う。そして海辺の村へ辿りつくと、三人太郎に驚いて百姓たちが逃げてしまい、三人は空腹でへたり込む。そこへ百姓の女の子がやってきて、三人太郎に説教する。動かない御堂・石子を置いて、力太郎は女の子に言われた通り麦刈りや大根抜きをして村の仕事を手伝う。「あたしらの村は、ひろいのよ。一生懸命働けば、お米がどっさりとれる村。腹いっぱい、たべてね」と女の子に言われ、力太郎は生まれて初めて腹いっぱいに食べる。
 海の見える村はずれでおむすびを食べながら、力太郎は「おとう……おっかあ! たべさせてやりたいなあ」と涙をこぼす。後をつけてきた女の子は、太郎が父母を想っていたことを察する。女の子は両親と死に別れていたが、村の人たちの中で仕事をして生きていると話す。力太郎も、自分の力で飯を食うための旅を続けることにする。
 三人太郎は城下町に辿り着くが、人影もなくしんとしている。泣いている娘を見つけて話を聞くと、化物に食われてしまうという。お城の欲深い殿さまは、町の人たちがせっせと稼いだ金、銀、財宝をしぼり取り、お城の八つの倉に貯めこんでいたが、その倉の中にある日へんなおばけが湧いて、金銀財宝なんでも飲み込み大きくなっていった。殿さまは財宝をおばけからとり返すために、人身御供として町の娘をお城に呼んで皆化物に食われてしまった。町人は皆逃げて、娘ひとりが残ったという。
 城には殿さまとお姫さまだけが残っていた。三人太郎は倉に潜む化物に挑むが、倉の窓という窓が眼光のように真っ赤に光り、一斉に倉の戸が開いて毒ガスが噴き出す。助けを呼ぶお姫さまを抱えて石子太郎は逃げ、城の周囲はガスに包まれる。赤や青の火の玉が打ち出され、町は火の海となり、み堂太郎は町の娘を抱えて右往左往する。夕暮れの頃、ようやく火が消えた後の焼跡の城下町で、お姫さまは泣きじゃくり、町の娘はお姫さまを張り飛ばして殿様の行いを非難する。み堂太郎と石子太郎も加わって喧嘩となるが、力太郎がその場を収めて、三人の太郎が力を合わせて化物を退治する約束をする。
 だが殿さまを案じるお姫さまに助けを頼まれた石子太郎と、町の娘に急かされたみ堂太郎は先に化物のところへ向かい、二人とも化物に呑まれてしまう。お姫さまと町の娘は、眠ったまま起きない力太郎を懸命に起こそうとする。そこへ村の女の子がやってきて力太郎の名を呼ぶと、太郎はとたんに目を覚ます。女の子がもってきたおむすびと餅で力いっぱいになった力太郎は、化物に向かっていくが、やはり呑まれてしまう。
 化物の体内で消化されようとしている石子太郎とみ堂太郎を力太郎が助け、三人揃っての大暴れで化物は苦しがり腹が破けて、飲み込んでいた金、銀、財宝、娘たちがこぼれ落ちる。化物にとり憑かれていた倉は崩壊し、山は火に包まれ、城も殿さまも消えてしまう。焼野原に三人太郎と三人娘と町の人たちが新しい町を建設する。
 新しい民衆の町では、花吹雪の中、山車の上で若者が太鼓を打ち、娘たちが踊る。力太郎は、町を作った経験から、自分の村も山を開き川を開いたら山ほど米をとれるようになると悟り、おとうとおっかあの元へ帰ることにする。三人太郎はいつも一緒の兄弟だから、と三人揃って町を去っていき、三人娘は「さよなら、おしあわせに」と見送る。最後は、野の果てに消えていく三人太郎と、見送る娘たちの長い影で「終」となる。

 以上が『ちから太郎』脚本での物語だが、搾取する為政者が自滅し、民衆の力で新しい町を作るという話になっている。太郎たちが化物を倒すのも「力を合わせて」というのが鍵となっており、思想教宣的な香りが強い仕上がりだ。
 『KUBO』との対比でいえば、出会った三人で珍道中をして化物と対決するという点は同じで、また三人が持つ鉄の棒・石・お堂は、『KUBO』での三つの武具と照応するイメージでもある。最後に化物を倒す鍵となるのは三人で力を合わせることにあり、それは『KUBO』で親子三人を象徴する三本の弦を備えた三味線が勝利の鍵となることとも重なり合う。そして極めて特徴的なのは、ちから太郎たちが三人娘を置いて、おとうとおっかあの元へ帰っていくことだ。脚本の構成としては、三人太郎と三人娘のかかわりをきちんと描いており、流れとしてはラストで突如として三人娘を置いて帰っていくのは不自然なのだが、この脚本は親子映画という運動のために色々な意見が入って取りまとめられたものであり、そのせめぎ合いの末にこうした形になったのかも知れない。
 日本の民話において男女が結ばれるラストは数多く、またそれは日本の民話に限らず世界中の様々な形式の物語に溢れる形でもある。『わんぱく王子の大蛇退治』も『太陽の王子 ホルスの大冒険』も、ラストシーンではスサノオの傍らにクシナダが、ホルスにはヒルダがいた。三人娘を置いて親の元へ帰って行く『ちから太郎』の脚本は、親子の愛で締めくくるラストという意味でも『KUBO』と重なっている。
 親の子への愛で始まり、子の親への愛で終わる『ちから太郎』もまた、親子の愛を描く『KUBO』の源流のひとつだといえよう。

 (4c)『ちから太郎』の完成と太郎座のその後

 前項で紹介した脚本を元に映画『ちから太郎』は製作され、ホール上映の効果などを考慮して、親子映画として初めて35ミリフィルムで撮影・上映された。読売ホールでの初上映は『太陽の王子 ホルスの大冒険』が劇場公開されたのと同じ1968年夏だった。35ミリとはいえ、予算規模や製作期間、上映規模は『ホルスの大冒険』とは雲泥の差ではあったが、『ホルスの大冒険』が『龍の子太郎』映画化案を止めて代りに製作されたことを思えば、因縁めいた邂逅でもあった。そして前章で引いた『ホルスの大冒険』プレスシートに、「『太陽の王子・ホルスの大冒険』は、家族揃って安心して見られ、親と子が本当に語り合える数少ない映画の一つです。」と書いてあったのは、当時盛り上がっていた親子映画運動を少なからず意識してのものでもあったろう。
 完成映画の仕上がりについては、35ミリ画面の明るさや色彩のすっきりした美しさがおぼろげに思い出されはするが、脚本からの変更点を論ずるほどの記憶は残っていないので、完成映画については今後の研究課題とし、ここでは詳しく触れない。
 撮影を担当した中尾駿一郎の記述によれば、化物の形は自由に変化する黒の物体で変幻自在。脚本の検討段階では抽象的だったので、人形を作る瀬川に任され、撮影現場では着色スモークと色々な花火を利用したといい、『KUBO』でSistersが操る黒煙のイメージにつながるものだったのかもしれない。また、『ちから太郎』の脚本冒頭の但し書きには「特殊効果、ミニチュア製作等に日本の紙をたくみに使って絵巻風な効果をあげる。」ともあり、折り紙を重要な要素として使った『KUBO』とのつながりをここでも感じる。表現技法という観点から追記しておくと、遡って人形劇『たつの子太郎』においては、龍が湖を切りひらく表現を、舞台で上手から下手へ水紋を描いた水布をはり、その動きによって波や、水が流れ出しやがて平地になっていく過程を見せたという。また人形劇映画『竜の子太郎』では、水紋を描いたけこみに黒のゴースを重ね、それを揺らせて湖にしたともいうが、こうした水表現の取り組みは、『KUBO』で試みられた様々な水表現の試行錯誤とも通底するものがあるように感じる。
 『ちから太郎』は、劇団太郎座が参加した最後の親子映画となった。太郎座は1969年にそれまで4年間日本テレビで続いていた『それゆけトッピー』が終了し、その他のテレビの仕事も無くなっていただけでなく、劇団内部も退団者が多くて安定しない状況下にあった。また親子映画への取り組みも、共同映画の収益が上がるばかりで太郎座は製作費の回収もおぼつかない状態で、独自に親子映画第4作『山んばのにしき』を製作する計画を立てていたがこれも実現せず、翌1970年8月には太郎座の演劇活動は休止体制となり、倉庫も売却された。
 こうした苦境の中、1970年4月に朝日ソノラマから「日本民話小説」と銘打って刊行された瀬川拓男の『小説 力太郎』は、瀬川にとって力太郎の集大成にして完成形ともいえる力作となった。その大筋は映画版『ちから太郎』が基礎になっているが、単行本一冊分の紙幅を存分に使って瀬川の思いを膨らませ書き改められている。
 結末部分も映画とはまた違う姿勢に着地している。民話を基に現代に向けた新しい長編童話を生み出す試みの中で、瀬川が『龍の子太郎』の脚色から『小説 力太郎』の発表へ至るまで、その結末の姿勢がどう変わったかをまとめると以下の様になる。
 松谷みよ子の原作『龍の子太郎』(1960年)では、物語の終わりは「こうしてできた、ひろびろとした土地に、人々はあつまり、やがて、見わたすかぎりのたんぼに、こがね色のいねがみのりました。そこで、龍の子太郎とあやは、にぎやかなご婚礼の式をあげました。そして、ばあさまや、あやのじいさまや、村の人たちもよびあつめ、みんなたのしく、しあわせにくらしたということです。」と締めくくられる。しかし瀬川拓男が書いた『龍の子太郎』舞台版及び映画版(1966年)の脚本では、婚礼は全く示唆されず、ひろびろとした平野で太郎、あや、その他大勢の村人たちが土を掘り起こし、太郎の母が種をまくという締めくくりになっている。この瀬川の姿勢が、三人太郎と三人娘が結婚しない『ちから太郎』の脚本(1968年)に受け継がれているとも見えるが、瀬川が書いた『小説 力太郎』(1970年)の結末はまた違った形になっている。事が済んだ後、町の人たちから、三人娘と結婚してこの町にいてくれと三人太郎は望まれるが、大男の大飯食らいなので嫁さまが苦労すると考える。力太郎は、「大男に生まれたおらは、死ぬまで化物とのたたかいだ。おらはいく!」「おらは国じゅうの化物のこらずたいじしたら、おとうとおっかあの村へかえる。さんこ……その時まで、さよならだ。」と旅立ちを決意する。さんことは、力太郎が仲良くなった女の子の名前だ。だがみなしごの三人娘は別れを受け入れない。最後は、夕焼け空の遥か地平の彼方を、三人太郎が肩に三人娘をちょこんと乗せて歩いていく。三人太郎と三人娘のかげが長くのびて、どこまでもついていく。物語の最後は、「はてしない空と大地のさなかを、人間のために、ほんとうの愛でむすばれた六人が、はてしなくつづくであろう化物たいじの旅にでていったのだ。ずんがぼんが、ごろごろどってん、ふうたらふうたら……。そしてまたあしたは、光かがやくお天さまが、東の空にのぼるのだ。」と終わる。
 1970年12月に瀬川は心臓発作で入院した。その後は、病を抱えながら『日本の民話』(松谷みよ子辺見じゅんとの共編著 / 角川書店 / 1972年~)の執筆や「季刊・民話」の刊行などに力を注ぎ、1975年12月に特発性心筋症でこの世を去った。
 『小説 力太郎』は親子の愛も男女の愛も大切に描きつつ、生まれもった自分の資質をどう使って生きていくのか、ということを考えさせる結末であり、民話と人形劇に生涯を捧げた瀬川の遺言状のようにも思える作品だ。

 

f:id:latitudezero:20181227192829j:plain

 (4d)『ちから太郎』後の親子映画

 以下は少々蛇足ではあるが、親子映画のその後の中で、気になる二作品について書き留めておく。1969年以降の親子映画は太郎座から離れた形で継続された。人形劇団京芸の出演による第4作『象のハナ子』(1969年)は、民話ではなく戦時中の象の話で、京芸の当たり演目を映画化したものだった。第5作『牛鬼たいじ』(1970年)は関西芸術座のレパートリーの映画化で、人形劇ではなく人間の俳優による作品。この第4作、第5作は16ミリでの製作に戻っていたが、第6作『おおあなむちの冒険』(監督・木村荘十二 / 1971年)は再び35ミリ製作の人形劇となり、人形は人形劇団ひとみ座が担当した。
 『おおあなむちの冒険』の検討用シナリオを読むと、これは「古事記」「日本風土記」などに想を得た神話譚であり、出雲の国のオオアナムチが大勢の八十神たちに嫉妬され二度も殺されるが、母の命懸けの行為で甦る。オオアナムチは、八十神のような者がいない国を造るため、国を造るのに必要な三つの宝を持つというスサノオがいる根の国へ向かう。旅の途上で助けたねずみに案内されてスサノオの館に辿り着くが、荒々しい神スサノオはオオアナムチを大蛇の部屋へ入れたり草原で火責めにしたりする。しかしスセリ姫やねずみの助けで生き延び、スサノオの持つ三つの宝を手に入れて、スセリ姫と共に逃げだす。スサノオは武人たちの乗った軍船を追手として差し向け追撃戦となるが、最後はオオアナムチの志を認めて二人を許し、三つの宝を与える。母の待つ出雲に帰ったオオアナムチは、スセリ姫と共に出雲を豊かで明るい平和な国にする、という話だ。
 スセリ姫の持つ琴は、大蛇や幽鬼などの魔を退ける力があり、これは『KUBO』の三味線を連想させる。また、過去にスサノオの三つの宝を手に入れようとした者たちが皆殺されたという話が語られる部分もあり、『KUBO』で三つの武具を巡り大勢が殺された話と重なり合う。スセリ姫との逃避行についても『KUBO』の 母(Mother) と Hanzo の逃避行そのままだ。『KUBO』の初期段階では、Mother の名前は Sariatu だった。これは一部のデザインワークにその名前が記載されている他、最終脚本の一部にも修正漏れで Sariatu と書かれているので間違いない。この名前にも響き合うものを感じるのは私だけだろうか。
 私は『おおあなむちの冒険』を35ミリのホール上映と16ミリの地域上映の2回観ているが、こうした細かいストーリーは覚えていない。しかし強烈に印象に残っているのは、人形ではなく人間が出演する冒頭部分だ。それは、人形劇の人形を作っている工房の舞台裏から始まる。工房の穏やかな雰囲気の中で子供たちが壁のデザイン画(?)を品評すると、それを突き破って八十神の人形が現れ怒声を発し鉾を投げる。人形の勢いも怒声も凄い迫力で、製造過程では「ただの物体」でしかない人形が、強烈な生命力を宿して動き始める瞬間の怖さに驚き魅せられた。今あの場面を改めて思い起こすと、『KUBO』エンドクレジットでの巨大なドクロの撮影舞台裏映像とのつながりを強く感じる。準備中の「撮影用の物体」でしかないドクロが、ふいにアニメーターを襲う動きを始めるあのハッとする瞬間、あの感覚そのものといってもいい。

 『おおあなむちの冒険』は私が観た最後の親子映画だが、その後の作品でもうひとつ、未見だが気になる作品の内容を脚本から紹介する。親子映画の第8作、1973年に製作された『マヨコに雪が降る』(監督・安 作郎)だ。
 これは人形劇ではなく、近代映画協会の製作による普通の劇映画として製作された。舞台は雪国の貧しい出稼ぎ村で、マヨコはようやく学齢期に達したくらいの女の子。両親は出稼ぎに行って家におらず、留守は祖母との二人暮らし。愉快で剽軽で物知りの祖母との、二人きりだが楽しさと愛情に満ちた日々が描かれ、その合間に両親と過ごした日々の回想が挿入される。しかし正月になっても両親は帰ってこない。雪の降るある夜、炬燵で絵本を見ていたマヨコは、台所に「ばっちゃ」と声をかけるが返事はない。祖母は流しで洗いかけの茶碗を持ったまま俯せになっており、肩に手をかけるとそのまま仰向けに倒れ、すでに息をしていなかった。以上の流れを、ひとり残されたマヨコをどこかへ連れて行く男との道行きを描写するのと交互に見せるという、複雑な構成になっている。祖母を想い泣き出すマヨコを、男は背負った布団の上にのせ、子守唄を唄う。小さい頃、ばっちゃに子守唄を唄ってもらったという男は、マヨコのおじなのだろう。子守唄はいつしか祖母の声のように聴こえ、「マヨコ、雪さみてれ。じっと見てれ」という祖母の声に上を向き降る雪を見つめると、見るみる雪片が桜の花びらに変わる。そこはもう春で、弘前城の観桜会の場だった。マヨコは父の肩車に乗って見物しており、母はぴったり父の腕につかまっている。桜、また桜。マヨコは父の肩の上で花吹雪に包まれる。それは男の背負った布団の上で眠っているマヨコの夢だった。男は子守唄を唄い続けながら、変わらぬ足取りで部落へ入っていく。
 以上が脚本の物語だが、両親は回想や夢の中にしか登場せず、両親もまたすでにこの世の人ではないのではとさえ思わせる厳しさがそこにはある。祖母との楽しい交情の描写や、両親との幸せな幻想を見せるラストなど、『KUBO』と響き合う部分が少なからずあるが、特に印象深いのは祖母の死だ。近しい人に唐突に訪れる死。そして「生きていた人間」が突如「動かぬ骸」「ただの物」になってしまう衝撃。本稿の序盤で触れた『子連れ狼』における拝一刀の死や、『KUBO』のBeetleの死などで表現されたのと同じ、死の冷厳な現実がここにはある。

 『おおあなむちの冒険』で、「物」でしかない人形が命を持って動き出す時。『マヨコに雪が降る』で、命ある人間が死んで「物」になってしまう時。その瞬間の不可思議で言葉にならない感覚、その両方が『KUBO』にはある。そしてこの接点は、人形劇と俳優劇と人形アニメーションの関係性を解き明かす鍵になるのかもしれない。

 (4e)本章および本稿の結び

 『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』を観て、私の心にとりわけ強く響いたのは、序盤におけるKuboと母の暖かな時間と、Sistersの出現によってそれが急転していく嵐のような展開だ。幼児の頃に戻ったかの如く、映画の中に入り込んで映画の情緒とひとつになって、私の心は揺らされた。画面が真っ白になった瞬間は、こちらの心も真っ白になったかのようだった。
 それほどまでに私の心に響き、私にとって映画の原点である幼児の頃の映画館体験の感覚を蘇らされたのは、なぜなのか。それは、これらの場面が『わんぱく王子の大蛇退治』、『太陽の王子 ホルスの大冒険』そして『ちから太郎』から受け継いだものを重ね合わせ一体としたものだからだ。
『わんぱく王子』序盤でのスサノオイザナミの暖かな交情、『ホルス』序盤での寝たきりの父とホルス、『ちから太郎』序盤で太郎の食事の世話をするおとうとおっかあ、その情緒が一体となり、また、『わんぱく王子』で離れていくイザナミを必死に追うスサノオ、『ホルス』でヒルダを懸命に呼ぶフレップ、『ちから太郎』でおとうの元に駆け付ける太郎、それらの持つ繊細な情緒が全て重なりあって一体となっている。
 「幼児の頃に初めて触れた数々の劇場映画は、私と言う人間の心の在り方そのものに強い影響を与え、映画の記憶は私という人間の一部を成している。」と先に書いた。だからこそ『KUBO』と私は強く響き合う。そして、『ちから太郎』の脚本を読んだ後でさえ、雪女の場面以外は定かな記憶としては甦ってこないのだが、それでも『ちから太郎』の物語は記憶の海に沈んだまま確かにそこにあるのだと思う。あるいは記憶の海に溶けて広く薄くひろがり、私の心の全ての部分と重なっているのかもしれない。そしてそれと強くつながる『KUBO』だからこそ、『ちから太郎』の存在の大事さを私に教えてくれることができたのだ。
 人と物語のこうした関係は、私に限らず全ての人にとってもいえるのではないか。人は両親から受け継いだ物を宿して生まれ出るが、その人を形作っていくのは、幼い頃からの人生で体験する全てであり、その中には映画のみならずあらゆる形の物語との出会いも含まれる。その全てが記憶の奥底に丸ごと残っているとまでは言わないが、強い印象を与えた物は、覚えていようといまいと、その人そのものの一部を成している。
 そして創作者が物語を生み出す時、その「創作」とはその人の心から生まれ出る以上、それはその人の体験した「物語」、自分で実際に体験したものにせよ、架空の物語の中に心が入り込んで体験したものにせよ、それらの物語を意識的にせよ無意識にせよ反映している。この世に存在する全ての物語は、そうした無数の連鎖の過程のひとつだということだ。私が本稿で執拗に「響き合う」「重なり合う」などの言葉を弄して様々な物語のつながりを延々と並べ立ててきた本意は、単に私の心を整理するためでなく、この連鎖を本稿を呼んでくださる方々に理解して欲しいと思ったからだ。
 民話「力太郎」は青森・岩手・石川県の辺りに、少しづつ異なる話として分布して伝わるものだが、島根県では桃太郎など類似の話と混ざっており、そうした類話の形ではより広く分布している。「力太郎」はグリム童話の「世界を股にかける六人男」「六人の家来」などと同系のものであり、その分布は世界的なものだという。つまり、物語のどれがオリジナルでどれがそうでないかなどという議論に大きな価値はない。並行して無数に語り継がれる物語の複雑な連鎖の中で、無数の物語の形が生れ、統合されあるいは分離され、また無数の物語が生まれる。一見して別の物語であっても、その中には古の物語のしずくが残っている。個々の作品の価値を真に決めるのは、何を語るかではなく、どのように語るかだ。
 だから、仮に『KUBO』の創り手が『わんぱく王子の大蛇退治』も『太陽の王子 ホルスの大冒険』も『ちから太郎』も観ておらず知らなかったとしても、本稿は無意味とはならない。古から現代に続く物語の縦横無尽の無数の連鎖、かつては口伝による民話として、さらには小説や演芸や映画として、その連鎖の中で、どこかで必ずつながっている。
 そして『春楡の上に太陽』『ホルスの大冒険』『KUBO』の重なり合う部分、異なる部分に意識を向ける時、それぞれの作品の「どのように語るか」という部分が深いところまで見えてくる。そしてそれがまた私自身の心を揺らし私の心を豊かにしていく。『わんぱく王子』『ちから太郎』との『KUBO』の相関も同じことだ。
 親子映画推進連絡会の初代事務局長を務めた山口義夫は、瀬川拓男と「民話は働くものが生活と労働の中できづいた価値意識と感情、教訓を未来へのねがいをこめて、その子に、孫に、そのまた次の世代に語りつぎしてみがきあげられてきた。だからそこには庶民の、民衆の夢と希望と愛と勇気、智恵がこめられている」というようなことを語り合ったという。
 幾世代もどこまでも語り継がれる民話。『KUBO』の洞窟の場面でBeetleがMonkeyに語る、「Your story will never end.」「It will be told by him. And by the people he shares it with. And by the people they share it with. And by the people they share it with. And by the people they share it with...」「The point is, your story will live on. In him.」という台詞にその本質が凝縮されているともいえよう。
 松谷みよ子が『龍の子太郎』のあとがきに書いた、「私は、祖先たちがのこしていったものを、埋もれさせてはいけないとおもいました。こまぎれになっている無数の小さなはなし、その中から、力づよいものをつかみだし、ほんとうに日本の土の中から生まれた、いきいきとした民話の主人公をかたちづくりたい、そして日本の子どもたちによんでもらいたい。」という言葉。それは、物語の伝承と再生の連鎖を能動的に意図的に新しい形でつなげようという意思だ。口伝で伝わる物語である民話を自ら耳を傾け文字に書きとって、それを印刷されて幅広く伝わる図書の形で新しい物語に生まれ変わらせたのが『龍の子太郎』であり、それは更にまた、声で語られる物語へ戻って舞台の人形劇となり、その人形劇を遠く広く届ける手段としてカラー人形劇映画が生れた。その流れが映画『ちから太郎』を生み出し、それらを包含する、世界中の過去から未来へつながる無数の物語の連鎖の果てに、『KUBO』という映画もまた存在している。シャノン・ティンドルが『KUBO』の元となった物語を発展させる際に日本の民話(Folktale)を取り込んだという事実は、それが瀬川の『ちから太郎』であれ『小説 力太郎』であれ、あるいはそれらの元となる私の知らない民話が存在するのであれ、『KUBO』の物語の成り立ち自体が『龍の子太郎』や『ちから太郎』と強く重なり合うということでもある。
 この無数の連鎖を未来に向ければそれはまた新たなる物語が生まれることであり、過去に辿れば忘れ去られかけていた物語を新たに発見することにもなる。松谷がいう「埋もれさせてはいけない」という感覚を、私は『ちから太郎』と瀬川拓男に対して強く感じた。なればこそ、本稿の「第三の弦」の章では大幅に脱線して瀬川拓男の足跡を最低限ながら書き留めた。松谷みよ子の『龍の子太郎』は現在も版を重ね広く読まれているが、瀬川拓男の『小説 力太郎』はもはや知る人も少ない。拙い本稿が再評価と回顧の何らかのきっかけになればと願っての脱線ではあるが、瀬川が民話や人形劇と辿った道筋を知ること自体もまた『KUBO』のような作品への理解を深める助けになると思う。

 私にとって映画の根源は、幼児が親子で観る映画であり、親子を描く映画であり、親子に向けた映画だ。それを私的な体験と感情と歴史的な事実の混沌たる交錯を通して物語ってきたが、そうした意味では本稿も今や物語の無数の連鎖を担うひとつの小さな鎖となった。未来と過去へつながる鎖となれば幸いだ。


おわり

 

 

 

 

 

 

だららん感想文 『シン・ゴジラ』の巻


 映画『シン・ゴジラ』を観たので感想文を書きました。 喫茶店で珈琲を飲みながらだらだら話すのを聞くような感じでお読みください。 1回観た印象だけで、それも観ている最中は頭の中がぐるぐるしていましたから、見逃しや勘違いもあるかと思いますが、そうした面も含めての率直な感想です。

 予備知識は控えめにして映画に臨みました。 ただ予告篇は見ていましたし、「完成した映画でファンタジーなのはゴジラだけ」という佐藤善宏プロデューサーの発言と、そのインタビュー記事の解説にあった「現在の日本に巨大な生物が出現したらどうなるかを描いた、リアルシミュレーション映画としての側面を持っている」という部分が頭に残っていました。 それゆえに、今回の映画は徹底してリアルな世界にゴジラという架空の存在が出現したらどうなるか、という視点の作品だと思い込んでいたのですが、これは事前情報の誤読でした。 淡々としてシリアスで深刻な作品を予想していたので、見始めた最初はちょっと混乱しました。
 冒頭からの展開を眺めて違和感を感じているうちに、矢口が突然「巨大な生物が」という話を始めるその唐突さに「えっ?」と驚き、頭の中に居座っていた「リアル」という言葉がどこかへ消し飛んで、その後に展開される絶妙かつテンポのいい台詞のやり取りに、「これのどこがリアルな世界なのか!? アレッ、これはコメディなのか?」と戸惑った挙句に理解したのは、単にこれは戯画化された世界に戯画化された人間たちが登場する、娯楽映画としてはむしろ当り前のスタイルの作品だということでした。 「リアル」とは、政府の人間それぞれが事態に対していかなる手順や手続きでどのように対処するのか、それぞれの行動とその相互関係についての「リアルシミュレーション」だったのですね。 自分の勘違いに気付いて、やっと映画に入っていくことができました。

 誤解を解決して座り直したところで困ったのが「どアップ」責め。 IMAXの巨大スクリーンいっぱいに通話機をぐわっと被せるように押し出してきたのには参りました。 その後も人物の巨大顔が巨大スクリーンにばんばんばんばんばんばん出てきて、「すいません、もう少し下がってください」と何度も心の中でお願いしておりました。 私が子供の頃によく見ていた空想特撮テレビ映画でも、画面いっぱいの顔のアップなどがやたら出てくる回があったのを思いだしましたが、あれは昭和40年代の解像度が低くて画面もごく小さいテレビ受像器で見た際の効果を考えてのことでしょう。 岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』にも三船敏郎のどアップはありますが、ここぞという勘所でだけ使っています。 もちろん、『シン・ゴジラ』でのどアップも深い考えがあって使い分けているのだとは思いますし、むしろ私が書いたような違和感を充分に理解して狙ったのかもしれませんが、どんな意図があるにせよ、とにかく鬱陶しくて鬱陶しくて。 2度と劇場で見たくない理由のひとつがこれです。 昭和時代で成長が止まった私の感覚からすると、巨大スクリーンの画面設計としては失敗のように思えますが、もしかしたら今の劇場映画はこれ位が普通なのでしょうか。

 さて、「おやっ」と思ったのは、怪物が背中を見せながら、河を進んでくるシーン。 これは印象的でした。 凄いことが起きているのに、映画の語り口が実に淡々としている。 巨大怪物が河を進んで、押しのけられた水や船が道路に溢れ、人々が走って逃げている。 これを見て、いやでも思い出すのが東日本大震災津波のテレビ中継です。 まさにテレビの前の視聴者であった私が感じた不思議な恐ろしさが蘇りました。 安全なテレビ前に座って、今まさに起きている信じがたい光景を見ている不思議な距離感と同じ感覚がここにありました。 現実と非現実の境界が曖昧になる瞬間。 『シン・ゴジラ』の特徴は、「市井の人の中にサブ・キャラクターを設定して、その苦難や心情を並行して描く」ようなことをしていない点ですが、それによって生まれる「距離感」が、本作にとってはうまく機能していると思います。

 さて、本作最大の難所、怪獣の顔を初めて拝むシーン。 「目を疑う」とはまさにこういう時に使うためにある言葉なのでしょう。 何が起きているのか何を見ているのか本当に分からなくなりました。 吾妻ひでおのマンガでの妄想的悪夢に出てきそうなそのヘンチクリンな顔。丸い大きな目玉が本当に異様。 リアルな災害シュミレーション、みたいな印象へ傾いてきたところへこれが来たので思考停止に陥りました。 まあ、「悪夢的」というのは狙ったのかもしれませんが、ここでもう、ついていけなくなりました。 ちなみに、映画鑑賞後にこれが「ラブカ」という実在の生物をモチーフにしているらしいと知りました。 ラブカの写真を見るとなるほどと思います。 でもね、「実在の生物をモチーフにしてるからリアル」ではないんですよ。 映画で表現されたものをどう感じるかです。 ヘビ笛みたいに首振りながら出てきたのでもう勘弁してくださいという気分になりました。
 しかしファーストカットはマンガみたいというだけでまだマシでした。 本当の恐怖はその後。 手というか前肢のあたりがうねうねと膨らんで、グロテスクな手がばりばりばりっと……。 この辺りは逆に生物感満載になって物凄く気持ち悪くなってきて、更に口の脇が裂けて赤い赤いスジスジがビローンと……もうこの辺りは何がどうなったのかうまく思い出せません。 もうとにかく気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて気持ち悪くて。 で、最後にスックと立った姿がまたマンガ的にデフォルメされた悪夢のような感じで、間が抜けてるんだけど体表の色もディティールもこれまた実に気持ち悪い。 グロテスクにユーモアが見え隠れするこの表現スタイルは、私が『シン・ゴジラ』を2度と劇場で見たくない理由のひとつです。
 ところが、色々な人の意見を見ると、こんなのはグロというほどのグロではないらしいのですね。 私より上の世代の方だと、私と同様な感想を持った方もおられましたが、私よりお若い世代の方は全然平気のようです。 これは「どっちが正しい」という問題ではなく、感性の違いでしかないのですから仕方ありません。 私にはこのグロが絶対ダメなのは事実であると同時に、大多数の方にはこんなのはグロではなくたいしたことないのも事実。 お若い方々よ、そういうわけで怪獣映画の未来はあなたがたの感性にお任せします。 幸運を祈ります。
 さて、さんざん文句を並べましたが、その一方でこの「丸い目玉」とその姿の佇まいが放つ独特の雰囲気は評価したいという気持ちもあります。 感情とか心とかそういうものを一切感じさせない、ただ生物が本能でうねうねと前進するその独特の存在感。 これは逆にあの目玉のおかげで良く出ていたと感じます。 更に言えば、というか本当はあまり言いたくないのですが、『ゴジラ』(1954)の上陸時の雰囲気にちょっと通じるところもあります。 生理的グロテスクという点では全くかけ離れた存在ですが。

 怪獣が一旦去った後、瓦礫ばかりの被災地を前に、矢口がひとり合掌するシーン。 ここは、見たその時には「こんなとってつけた描写いらないのでは」と思ったんですが、映画を見終わった後に考えを改めました。 「河を進む巨大怪獣」の話で触れた、「距離感」のようなものがよく出ています。 「遺体がずらりと並んでそこで合掌する」のではなく、瓦礫の山への合掌。 この「距離感」の話はまた後でします。

 さて次。ふたたび巨大な怪獣が上陸します。 やっとこさポスターや予告篇でおなじみの怪獣が登場して、ここはちょっと気分的に上昇します。 とはいえ、これは「別の怪獣が上陸してきた」とは思わないのでしょうか。 怪獣が出てくると同時に、「台詞」で生物が2倍くらいに巨大化していること、姿も大きく変わっていることを「説明」していますから、それで観客は無理やり納得させられます。 しかしこれは実にまずいやり方だと感じました。 台詞で2倍と言われたから、ああそうか、と思うだけで、登場時の映像自体に「2倍」を有無を言わさず納得させる力があるかというと、そうでもない。 こういうところこそ、台詞のリズムと映像のリズムのコンビネーション、映画的リズムでぐいぐいぐいと見せていくべきではないでしょうか。 最初に上陸した時に観客が味わった衝撃と同等かそれ以上の勢いで観客の顔を張り飛ばすような「巨大化と形態変化の驚き」の表現が、ここにこそ欲しかったですね。
 『ゴジラヘドラ』や『エイリアン』など、怪物が変態する「変態映画」の系譜からすれば、小さなチェストバスターが行方不明になった後に巨大な成体エイリアンが出てくる衝撃に似たものを狙ったのかもしれませんが、エイリアンの場合は頭部の雰囲気などを継承していますから、「台詞」で説明されなくても出てきただけで観客に納得させ衝撃を与える力があり、そこが、頭部の印象が著しく変貌している『シン・ゴジラ』との大きな違いだと思います。

 しかし、とてつもなく巨大な生物が静かに悠然と進んでいくイメージは、恐ろしいほどに美しい。 予告篇で抱いた期待感が間違っていなかったことを確認できる時間でもありますが、「逆にこれこそ予告篇などで見ずに、映画館で初めて目の当たりにしたかった」と実に勝手で矛盾したことを思ったりもするのでした。
 私は子どもの頃から、ミニチュアの戦車とぬいぐるみの怪獣が戦うような映画やテレビをたくさん見て育ちました。 私はそうした作品たちがほんとにほんとに大好きです。 しかし、『シン・ゴジラ』で現実感溢れる近代兵器が怪獣に徹底的な攻撃を加える渾身の映像もこれまた実に魅力的です。 どっちが上、ではなく、それぞれにそれぞれの魅力があるという当たり前のことを、今更ながら思います。

 さて、自衛隊の攻撃が殆どゴジラにダメージを与えなかったので、米軍の攻撃が始まります。 この辺りがまた微妙なところで、巨大生物への物理攻撃が効果を発揮すれば、体が裂け体液が流れ出すのは当然です。 されど、やはりここが私にはちょっと生理的に気持ち悪い。 私が子供のころに観た怪獣映画でも、怪獣の体や顔が裂けて体液が流れ出したり、腹に大穴が開いたりといった描写はありました。 でも、当時のぬいぐるみの質感その他の総合的な結果として、デフォルメのかかった表現になっていたせいか、生理的嫌悪は感じませんでした。 しかしこれは時代が変わったということでもあるのでしょう。 今の子供たちは、私が子供の頃にガメラ映画を見たように、この作品を見ているのかもしれません。
 『ウルトラマン』に登場するガヴァドンの如く、手を出さなければあまり動かず暴れもしないように見えるゴジラ。 しかし、手痛い攻撃を受けたことで反撃の牙を剥きます。 紫色に発光し、口が裂け、ビームと火炎で周囲全てを破壊し尽くし焼き尽くすかのような凄絶な光景。 ここはどうしても『風の谷のナウシカ』や『巨神兵東京に現わる』を思い出さざるを得ません。 私は、「過去の映画で見かけたようなシーンを入れてたら減点」とか、「過去にやっていない斬新なことをしてなければ価値がない」とか、そういう考えはありません。 映画の語り口の中で映画の構成要素として効果を挙げ得ているか否かが大事だと考えます。 しかし、ビーム(?)を出し始めた時点で以後どうなるか予想できてしまうのが物足りなかったのも確かでした。 いや、もちろん映像の出来栄えはたいしたものですし、炎との組み合わせ方も実に迫力があって良かったと思いますよ。 映画を見終わって少し時間が経った今にして思えば、映画の序盤から驚かされるようなものを次々に見せられたせいで、過大な期待を抱き過ぎていたのが不満の一因だったのでしょう。 まあ、口が大きく裂けるかのような開き方をするのをグロテスクに感じてしまうあたりも、私がいまひとつ乗り切れなかった理由かもしれません。 あるいは怪獣の腹が開いてビームを放つ別の映画を思い出してしまったせいもあるのでしょうか。
 物足りないと書きましたが、この場面で私の心を捉えた瞬間がありました。 矢口が初めて現場近くでゴジラを目の当たりにするシーンです。特に、地下鉄の入り口で見上げる夜空をゴジラの放ったビームが走るショットは、地上からの視点で周囲には人が大勢いるのでゴジラは見えず、ビームだけが空を走るその凄絶な恐怖に満ちた美しさは臨場感満点でした。 ただ、そうした美しさだけではなく、ほかに何か私の心を揺すったものがこのシーンにはありました。 それは何なのか、というのはこの文章を書く過程でわかってきましたので、以下の話の中で書きます。

 総理大臣の乗ったヘリがゴジラに撃墜されて、ゴジラ対策の実質的な重責が矢口にのしかかってきます。 米国や国連など海外からの干渉で核兵器による攻撃の危機が迫る中、矢口を中心にして、日本自身の力でなんとかゴジラに対処しようと努力する流れが描かれ、ゴジラを凍結する作戦に希望を見い出します。 恐ろしく危険な命懸けの作戦を開始する前に矢口が訓辞をするシーン。 皆が防護のための物々しい装備を身に着けていて、任務の危険さを実感させられる中、矢口の懸命の言葉が続きます。 ここは本当に強く私の心を捉えました。 観客としての私の心が、矢口に寄り添うがごとく一体化していく時間でした。 「過去の映画でよく見かけたようなシーン」であっても、「映画の語り口の中で映画の構成要素として効果を挙げ得ているか否かが大事だ」というまさにそのケースですね。 日本という国家の骨組みを守っている「官に属する人間」が決死の覚悟でゴジラに立ち向かう。 「ニッポン対ゴジラ」とは、「官民力を合わせて国民が一丸となってゴジラと戦う」という意味ではなく、官が国家を守り国民を守る姿を指しているのだと感じる瞬間です。
 そしてこの「官視点」ということで考えると、先に書いた「瓦礫の前での矢口の合掌」は、むしろ的確で鋭いシーンだと納得しました。 矢口の映画での立ち位置は市民の「中」にあるのではなく、また、官の「中」にあっても自衛隊員のように直接市民の遺体に接するわけでもありません。 矢口は官の中にあって官を統率する頂点集団の一人であって、市民や自衛隊員との間には明確な心理的な「距離」があります。 しかも、「距離」があって一人一人の具体的な顔が見えていない存在である市民や自衛隊員(その他、官に属して働く全ての人々も含め)に対して、非常に大きく重い「責任」を背負っている立場でもあるのですね。その絶妙な「距離感」と「責任感」がまさにここに現れていると感じます。
 この距離感に似たものは、ゴジラの出現に逃げ惑う人々や、崩れる建物の中に見える人々、また、ゴジラ攻撃直前に発見される逃げ遅れた人などの表現にも感じられます。 カメラと人々の物理的な距離は遠くないのですが、あくまで映画の語り口は距離感を置いた観察者であって、市民の内面に寄り添ったり、市民の心情を中途半端に描いたりはしていません。 そこを徹底しているのですね。
 そして、その「距離感」の中にあって、ゴジラや市民の様子を様々な報告や通信映像などを通して情報を受け取っていた矢口が、初めて直接ゴジラを目の当たりにし、しかも市民のざわめくすぐそばに立って体感するのが、先に書いた地下鉄入口の矢口のシーンなのでした。 あそこまでの積み重ねがあればこそ、ここが強烈なアクセントになっています。

 いよいよゴジラ凍結のためのヤシオリ作戦の実行ですが、ここでちょっと映画の中盤まで戻って、映画音楽の話をします。 私は、「その映画のために書かれた劇音楽ではなく、過去の映画音楽を使う」という手法そのものは否定しません。 ただ、成功させるのはすごく難しいのではないでしょうか。 中盤から、映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』に使われた聴き覚えのあるリズムが何度か出てきますが、これは正直困惑しました。 この独特のリズムは、私と同じかそれ以上の世代にとっては、ジョン・バリーが音楽を担当した007映画『ロシアより愛をこめて』の有名な曲を思い出させるものであり、エヴァンゲリオンでは明らかにその名曲のパロディのようなニュアンスを込めて書かれた音楽なのでしょう。 エヴァンゲリオンについて殆ど知らない私でさえ、テレビで放映された新劇場版だけは見ていたので、なぜここでこの二重の既視感(既聴感?)を幅広い世代に及ぼしている音楽を、わざわざ持ってきたのか大いに疑問でした。 いや、私にはわからない立派な理由があるんでしょう。 ただ、立派な理由があるか否かは大きな問題ではないんです。 せっかく映画と言う虚構の中に入り込んで物語の情緒に寄り添っていたのに、ジョン・バリーを聴いたとたんにそこから外へ引っ張り出されて、「映画ごっこ」を外側から眺めているような感覚になってしまうのが実に残念でした。 本当にもったいないと感じました。

 ヤシオリ作戦でも、第1段階の作戦開始と同時に聴き覚えのある音楽が鳴り響いて、ここは怒るというより笑ってしまいましたが、やっぱりちょっと惜しい。 これは『宇宙大戦争』のために書かれた映画音楽ですが、確かにこれを選曲した判断というかセンスそのものは実に絶妙で鋭いと思います。 映画の流れでいうと、ここは「対比」効果が存分に発揮されるところで、ここまでの描写で重くのしかかっている雰囲気をちょっと転化させる役割もあります。 新幹線を突っ込ませるという突拍子のない意表を衝いた作戦には、「諧謔」「疾走感」「突撃感」「明るさ」「痛快さ」「開放感」を感じますが、『宇宙大戦争』のM32という音楽はこの要素にぴったりなのですね。
 『宇宙大戦争』は宇宙からの侵略者との戦いを描いた映画ですが、序盤では得体の知れない侵略者の不気味さとそれに対する危機感があるものの、中盤から終盤にかけては、徐々に実態が明らかになる侵略者との全面的な戦争に突入します。 そこには「地球が滅んでしまうかも知れない絶望的な悲壮感」などはあまりなく、終盤では壮烈な総力戦の迫力を楽しむ高揚感に観客は心を任せていけるようになっています。 終盤で使われるこのM32には「突撃ラッパが盛大に吹かれ、皆一斉にシッチャカメッチャカに突っ込んでいく」かのような雰囲気を感じますが、ここには先に書いた「諧謔」「疾走感」「突撃感」「明るさ」「痛快さ」「開放感」が揃っています。
 ですが『シン・ゴジラ』では、列車突撃作戦の前には矢口の訓辞で「日本を守れるかどうか」という悲壮感と、それゆえに漲る決意を強く感じさせており、列車突撃作戦の後には、日本を守れるのか守れないのかというギリギリの凄愴な戦いが展開されます。 それゆえに、列車突撃作戦の音楽においても、「諧謔」「疾走感」「突撃感」「明るさ」「痛快さ」「開放感」だけではなく、どこかにその「重さ」のようなものが音楽の重心として機能して、前後のつながりと流れを作っていくべきではなかったでしょうか。
 まあ、以上の理屈はもちろん家に帰ってから、自分が感じた違和感の原因を解きほぐした結果ですが、とにかく観たその時には、「せっかくの矢口の訓辞のシーンからの情緒の流れの積み重ねが、うまく繋がらなくなってしまった」ということが全てです。
 『シン・ゴジラ』の音楽構成全体からいっても、新幹線突撃作戦は勘所のアクセントになる重要な場所です。 なればこそ、本作のために書き下ろした素晴しい音楽が欲しかったと心底思います。
 本作では他にも伊福部昭の映画音楽が複数個所で使われています。 巨大化したゴジラが上陸するシーンに使われた『キングコング対ゴジラ』でのゴジラの主題は、比較的違和感なく聴くことができたところでしょうか。 このあたりは、逆に音楽そのものから総監督が受けたインスピレーションを、具体的な映像として結実させたのがあのシーンだったのかもしれません。 また、『メカゴジラの逆襲』のゴジラの主題についても、同作でのゴジラは人類の脅威となる対立した存在ではありませんから、そうした意味では音楽の本来のイメージとは違いますが、『ゴジラ』『キングコング対ゴジラ』『メカゴジラの逆襲』と順にゴジラのテーマを使うことで歴史をなぞっているということなのでしょうね。 まあ、意外に違和感は少なくて不思議な効果が出ていました。
 とはいえ、そもそもなぜ「伊福部昭の音楽を使う」のでしょうか。 半世紀以上も前の空想特撮映画のために書かれた映画音楽を使う理由。 先人が生み出した素晴しいものへの敬意を表し、今ゴジラ映画を見る若い世代へ、後の世代へ伝えていくためでしょうか。 先人の音楽を使うことよりも、先人に負けない音楽に挑戦することにこそ真の敬意があるとはいえないでしょうか。 そうしたことによってこそ、先人の仕事も光り輝くのではないでしょうか。 今思えば1984年の『ゴジラ』の音楽は、そうした意味で、渾身の書き下ろしによって統一された実に堂々たる映画音楽でした。

 さて、映画を見た時の印象を中心に書くつもりが脱線し過ぎてしまったので話を戻します。 列車突撃作戦の後、ゴジラのエネルギーを消費させるための航空作戦が始まりますが、ここがちょっと惜しい。 背中から多数のビームを放つゴジラのショットですが、ゴジラ自体のCGIの仕上がりが他のシーンに比べるとかなり落ちる印象を受けました。 ビームを放ちながらゴジラが少し体を動かすショットなどは実にぎこちなく、とても100メートル以上もある巨体には見えません。 ゴジラを表現するCGIの仕上がりについては、正直映画全体でばらつきを感じました。 予告篇などの告知映像に使われたショットは実に完成度が高く、IMAXのスクリーンで改めて観ると本当に見ごたえがありますし、「ついにここまで来たか」という感慨と喜びを強く感じさせるものでした。 それだけに、仕上がりのクオリティのばらつきは残念でしたが、恐らくは時間や予算の制約の結果止むを得ずというところだったのでしょう。

 では次。 「ゴジラの活動を抑え込むために埋める」という作戦は、『ゴジラの逆襲』や『キングコング対ゴジラ』といった作品に先蹤がありますが、ゴジラの周囲の巨大な高層ビルを次々に崩して使うという作戦、まさにこれぞ半世紀前ではなく今だからこそ出来ることですね。 これは実にダイナミックな迫力に満ちた凄絶な光景でした。 再度観てみたいところですが、他のところがきついのでとても劇場へ足を運ぶ気にならないのが残念です。 そして、この抑え込みに成功した後が本作の真骨頂です。
 私が子供のころに観たような特撮映画だったら、「怪獣の体を埋めて横倒しに押さえ込み、口から液体を流し込んで活動を止める」というのはひどく地味でつまらないアイデアに終わったかもしれません。 しかし、本作ではゴジラに設定された途方もない巨大さと、その巨大さを感じさせ得る映像表現があり、それがこのシーンを素晴しいものにしています。 横倒しに埋められてなお、ゴジラの頭部は途方もない高さにあります。 そのゴジラに薬液を注入する車両は、これまた相当に巨大な筈ですが、ゴジラと比べると悲しいほどに小さい。 その小さい車両が懸命にパイプ(?)を伸ばしてゴジラに薬液を注入しようとする姿の健気さには涙が出そうになります。 巨大なゴジラに立ち向かう、小さな小さな人間たち。 この恐ろしく危険な作業に従事する人々の、ただひたすらな姿も胸にくるものがあります。 そして、……そして、活動を抑え込んでいると思えたゴジラが突如として火炎を吐き、注入部隊があっさりとその業火に包まれ飛ばされていくショットには、思わず「うっ…」と体をよじりました。 体の芯というか心の芯に響くような衝撃を受ける強烈なシーンでした。
 この映画がここまで積み上げてきたものが実を結んだ瞬間でした。 注入部隊のひとりひとりが働く姿はきっちりと充分に描写されていて、その人間たちの姿には心動かされるものの、映画はそのひとりひとりに寄り添わず、距離を置いています。 部隊の中にサブキャラクターを配置して、その人物の心のあり方や考え方を浮き上がらせたり、「今度子供が生まれるんだよね」などの台詞を言わせたりとか、そういうことを一切していない、そのことが実に効いています。 また、火炎で部隊がやられるショットはあくまで距離を置いた視点であって、映画の視点は指揮官の位置に近く、ひとりひとりが炎に包まれるなどの「近づいた」描写は一切ないということも見事です。
 この感想文で何度も触れた「距離感」の匙加減が実に素晴しいですね。 先に書いたように、指揮を執っている矢口と、その指揮下で最前線で働く人々との間には心理的・構造的な距離感があります。 しかしその顔の見えないひとりひとりの重い命に対して矢口は大きな責任を背負っていると同時に、日本を救うために作戦を成功させなければならない責任も背負っているその苦しさ、その痛み、その重さ、その全てがここに集約されています。 部隊がやられた直後、衝撃を受けた矢口の反応は、まさに私の反応とシンクロするかの如きもので、そこからすぐに心を立て直して作戦指揮を続行する姿もまた「かくあるべし」としかいいようのないものでした。 「映画の語る情緒の中に入り込んで映画と一体となれる」ことこそ、私が娯楽映画に求める核心なのかもしれません。 『シン・ゴジラ』最高の瞬間がここにありました。

 さて、だいぶ話が長くなりました。 珈琲のおかわりはいかがですか。 えっ、さっさと残りの話をしろ? そうですね。 この後の展開も実に緊迫感というか切迫感があり、ハラハラさせられて実に良かったですよ。 活動停止させられるのか、どうなのか、という語り口も実にお上手でした。 このまま最後まで映画の情緒に寄り添っていけそうな気がしていたのですが、ゴジラが停止した後がもう私にはダメでした。 ゴジラが停止した、作戦が成功した、となれば一瞬ホッとしたすぐその後に、矢口は実行部隊の生存者探索や負傷者救出を気にかけて勢い込んだ言葉を発すると思っていたのですが、それが全くありませんでした。 確かに、火炎でまるごとやられた部隊は「全滅」という報告が入っていましたし、他の部隊についても、矢口が指示を出さずとも当然生存者探索や負傷者救出をやっているのかもしれません。 しかし、ここで重要なのはロジックではなく、「映画の語り口」として、矢口が彼らを懸命に気にかける姿があって欲しかった、いや、必要だったと私は思います。 それがあってこそ、実行部隊全滅の報告を受けた時の矢口の苦悶と素早い気持ちの立て直しの、本当の重さが伝わるのでないでしょうか。
 映画に寄り添っていた私の気持ちは離れていき、「私が大統領であなたが総理」みたいな話をしているシーンあたりになると、もう本当にどうでもよい気分になっていました。 全てが台無しでした。

 

 話は以上で終わりでもいいのですが、これは「だららん感想文」ですから、書き洩らした話題をだらだらと以下少々。

 カヨコ・アン・パタースンというキャラクターを見ていて、その妙な言葉遣いも含めてイライラする感じは私もありました。 ただ、私は「映画で俳優の演技に悪印象を持ったら、その責任は俳優ではなく監督にある」と考えます。 現場で俳優に指示を出し、その演技にOKを出した立場の者に責任があります。 あれはむしろ監督(総監督)の狙いなのでしょう。
 映画の設計上は、日本に核ミサイルを撃ち込もうとする側の人間、つまり「敵側」(?)の人間ですが、日系人でありしかも祖母が広島で被爆していて、内心はむしろ核攻撃を阻止したいという立場にあり、その点では「こちら側」でもあるという葛藤を抱えています。 『キングコングの逆襲』でのマダム・ピラニアを連想するようなキャラクターですね。 そして『シン・ゴジラ』での米国や国連といった存在は、リアリズムの著しく欠けた、かなりデフォルメされた存在であり、まるでマダム・ピラニアの所属する「某国」の如き曖昧なイメージでもあります。 国連決議で日本に核ミサイルを撃ち込むというのはいくらなんでもムチャクチャですし、そうした強い虚構性を与えられた米国を代表する存在としてのパターソンがあのような妙なキャラクターで表現されたのはむしろ必然だったのかもしれません。
 ただ、どのような理由があろうと、私にとってはこの映画に乗れない理由のひとつになってしまったのも確かなのでした。

 最後にゴジラについて。 私が良く観ていた昭和のゴジラシリーズでは、ゴジラは多かれ少なかれ擬人化された側面を持っていました。 いや、擬人化という言葉は誤解を招くかもしれません。 観客の視点で、ゴジラに人間的な感情を虚像として重ね合わせてしまうような映画表現、とでも書いたほうが私のイメージに近いでしょうか。 1954年の最初の『ゴジラ』では、そうした表現はごく少ないものでしたが、ゴジラを殺そうとする終盤で描かれた海中のゴジラの姿は、大人しくてちょっと可愛くて哀しくて、という印象を与えるものでした。 『ゴジラ』では、登場人物たちに「ゴジラが可哀相」などとは一切言わせていませんし、ゴジラを殺すことに反対する山根博士も、その理由はあくまで学術的な見地によるものでした。 しかし、映画の語り口は、ゴジラもまた可哀相なんだと感じさせるもので、登場人物の台詞を借りずにそれを表現していることが素晴しい作品でもありました。
 ゴジラ映画がカラーになってからは、ゴジラは人間のような感情を明確に垣間見せる(少なくとも観ている側はそのように感じる)ようになり、また映画の終幕では死なずに海へ帰るか島へ帰るか、という和やかな着地点が設定されるようになりました。
 そうした私自身の昭和の記憶の中にある、「ちょっと感情移入したくなるゴジラ」と対比すると、『シン・ゴジラ』でのゴジラは、かなり異質なものでした。 初期形態の感想で「感情とか心とかそういうものを一切感じさせない、ただ生物が本能でうねうねと前進するその独特の存在感。」と書きましたが、それは巨大化してからも同様で、暴威を揮っているときですら、「感情よりも本能」という印象を受けました。 ロボット、と書くと違いますが、「本能で自動反応する構造体」のように見える時もありました。 ただ、それでも「哀れ」な存在だと感じました。 いや、「それでも」というより「それだからこそ」哀れなのかもしれません。 不思議なゴジラでした。 ゴジラ映画はこれからどこへ向かうのでしょうか。


【結び】

 私が初めてゴジラ映画を劇場で観たのは、1967年の『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』でした。 暗闇の中に光るカマキラスの眼の妖しさ、クモンガの谷を通る緊迫感など、幼児の私は「映画の描く怖さ」に魅了され、また、カマキラスが卵を襲い、その卵からミニラが生まれてゴジラがそれを助けに現れる、という物語の語り口にも心を奪われました。 そして今改めて観て私の心を強く惹きつけるのは、あの素晴しいラストシーンです。 映画の語り口と音楽の語り口が一体となり、観客である私の心も一体となるあの幸せな時間。 私にとっての素晴しい映画とは、それが面白おかしいコメディであれ、心の底から震え上がる恐怖映画であれ、あるいは他のどんなものであれ、「ああ、面白かったーっ」と笑顔で、充実した満足感で映画館を後に出来る映画です。
 そして私にとっては、『シン・ゴジラ』はそういう映画ではありませんでした。 でも駄作であるとも思いません。 この映画を楽しめる方々には、「良かったですね」と申し上げたい。 そして私は私で、私に喜びを与えてくれる映画を求め続けるだけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

GODZILLA の綴りを考えたのは誰か ―竹内博さんが残したもの―

 1954年に本多猪四郎監督の『ゴジラ』が公開されてから60年。 今年は節目の年ということで、イベントや出版が目白押しの盛況を呈している。 洋泉社の「別冊映画秘宝 初代ゴジラ研究読本」(2014年8月24日発行)も、そうした中で出てきた読み応えのある一冊だ。 ゴジラ映画、特に初代ゴジラの研究といえば、先駆者にして第一人者の竹内博さんの存在は途方もなく大きかった。 だがその竹内さんもいまやこの世の人ではない。 そうした今の状況で、「初代ゴジラ研究読本」のように新たな研究が世に出ることは大変喜ばしい。 竹内さんの拓いた道を、後に続く者がさらに進んでいく。 先人の作った階段を後に続く者が昇り、さらに上へ続く階段を作る、それこそが竹内さんが望んだことではなかったかと私はしばしば思う。
 ところが、おや、と思ったのが「初代ゴジラ研究読本」の135頁にある、GODZILLAの綴りについての解説。 1955年の Japanese Motion Picture Industry の誌面が紹介され、この海外向けプレスの表記ではすでに GODZILLA の綴りになっている事実が指摘されているが、「誰がどの段階で決定したかは詳細不明。」とある。 そして以下のように締めくくられている。 「なお、竹内博氏は生前GODがついたプロセスを記した本があり、そこには日本でつけられたと書かれている、と知人に語っていたそうだが、本書の調査では発見できなかった。」
 これは少し意外だった。 すでに研究者の間では知られていると思い込んでいた。 そこで、私が多少なりとも知っていることを以下に紹介する。

 竹内博さんは、1998年のトライスター版『GODZILLA』のノヴェライゼーション(スティーヴン・モルスタッド著、石田享訳、ソニーマガジンズ、1998年7月11日発行)に「ゴジラは伝説ではない」というエッセイを寄せており、その中で「ちなみに GODZILLA という洒落た英文スペルは、映画字幕翻訳家の高瀬鎮夫のアイディアである」と明言している。
 では、竹内さんはどうしてそれを知ったのか。
 おそらくその出典は、1974年に高瀬鎮夫が東京新聞夕刊に連載していた「スーパーまん談 字幕づくり奮戦記」というエッセイだろう。 3月8日付夕刊に掲載された連載第23回「ゴジラで三度かせぐ」には、当時の経緯が書かれている。 高瀬鎮夫は、輸出用の日本映画のために和文英訳をする仕事もしていたが、その中で『ゴジラ』(1954)の脚本を英訳する仕事が回ってきたのだという。 以下にエッセイの後半部分を引用する。 文中に「タテヨコ」とあるのは、縦書きの日本語を横書きの英語にする、つまり「和文英訳」の意味だ。

 (前略)とにかく「ゴジラ」の英文シナリオは無事に完成した。 英語でメシを食っているけど、自分で完全な英文が書けるなどとはユメにも思っていないので、タテヨコの時は、いつも多少は話のわかりそうな外人さんに手伝ってもらう事にしている。
 このころはアメリカ駐軍用の新聞「星条旗」(Stars and Stripes)の芸能記者アル・リケツがそれだった。 東宝にもサムライは多いので、この「ゴジラ」をそのまま Gojira としては、いかにもネウチがない、そこで知恵をしぼったあげく、 Gozilla となった。 イカす。
 アルが当惑したように言った。 「東宝ではこれが当たったら当然、続編を作るだろうな。そうすると、これは固有名詞でなく、一応は the Gozilla 定冠詞をつけるべきではないかな」。 先見の明ありと言うべきである。
 映画「ゴジラ」が完成して、その英文スーパーもアルと組んでやった。 映画の終わりで、水中に酸素不足でアエなくなったゴジラくんに向かって、志村タカシさんが言う。
 「ゴジラは決してこれで終わりではない。(もしこの映画が当たったら)きっと第2、第3のゴジラが出て来るだろう」
 アルと私は思わず肩をたたき合って笑いこけた。 はたしてアメリカでも大ヒット。 ついにこれを再編集してレイモンド(アイアンサイド)バア氏主演のアメリカ「ゴジラ」が日本に逆輸入された。そのスーパーもやらされた。 「ゴジラ」で3度かせいだ男――それは私です。

 以上、文中の綴りが Godzilla ではなく Gozilla になっているのが微妙なところだが、何しろ20年後に書かれたエッセイであり、 Godzilla を意味して書かれたのだと思う。 日本国内封切時の英字紙での広告では Gojilla となっているが、高瀬らが台本の英訳や完成映画のスーパーインポーズ用の英訳をする過程で Godzilla に固まっていったのではないだろうか。
 竹内博さんはなぜこれを皆に教えずにこの世を去ってしまったのか、と不思議に思われる方もいるのではないだろうか。 しかしそんなことはない。 実は、これはみんなが竹内さんからすでに教えてもらっていることだった。
 私がこの記事の事を知ることができたのは、ファンタスティックコレクションNo.5「特撮映像の巨星 ゴジラ」(朝日ソノラマ 1978年5月1日発行)に掲載された「ゴジラ映画主要参考文献目録」に「ゴジラで三度かせぐ/高瀬鎮夫」として掲載紙名と日付がきちんと書かれていたからだ。 「特撮映像の巨星 ゴジラ」の企画構成は酒井敏夫と浅野悦子。 酒井敏夫とは言うまでもなく竹内博さんの筆名だ。 竹内さんにとって、これは既に公開ずみの情報で、皆が知っているはずのことだった。
 ファンコレの「ゴジラ」は、いわばゴジラ映画をきちんと評価する出版活動のさきがけであり、ゴジラ映画を見据える視点の基礎、あるいは出発点となったムックだ。 だが、その後ゴジラに関する図書やムックは数え切れないほど出版されてきた。 それゆえ、「ファンコレは懐かしいけど、研究の進んだ今では特に見返すには及ばない」という意識があるのではないか。 しかし今改めてその頁を繰ってみると、限られた紙数の制約の下、実に端正にまとめられた充実の内容に驚かされる。
 正直に言えば私自身、ファンコレの「ゴジラ」に凝縮された豊かな内容を使いこなせていなかった。 刊行当時まだ中学生だった私は、「ゴジラ映画主要参考文献目録」の頁を見ても、そこに列記されている文献に当たろうという発想は起きず、ただ字面を眺めて感心していただけだった。 ファンコレ刊行の20年後に竹内さんが書いた「ゴジラは伝説ではない」で高瀬鎮夫の名を見た時も、すぐにはあの文献目録に結びつかなかった。 更に何年も経過してから、原稿執筆のために参考文献目録の頁を久しぶりに開いて、ようやく気付いたという体たらくだ。
 ファンコレの「ゴジラ」はもちろん竹内博さんひとりの功績ではなく、「取材スタッフ」や「資料提供・協力」として名前が挙げられている錚々たる顔ぶれの諸先輩方の熱意の結晶だ。 だが竹内さんの存在がこの完成度を生み出したのは間違いない。 つくづく感じるのは、自分が釈迦のてのひらで踊っている猿だということだ。今改めてファンコレの頁をめくってみると、そのことを痛感する。 竹内さんは、映画の脚本や宣伝資料、新聞記事に至るまで「紙の資料」を徹底的に探索し調査するという姿勢を貫くと共に、映画を作った監督、脚本家、製作者、美術家ら大勢の人々にも直接取材した。 この両輪をきちんとこなして相互に反映させることこそ「研究」の本義だということを身をもって示していた。

 このブログ記事の最初で、「先人の作った階段を後に続く者が昇り、さらに上へ続く階段を作る」という話を書いた。 竹内さん亡き今、生きている者が成すべきことは、「先人の作った階段」を埋もれさせないだけではなく、その階段作りの姿勢そのものに学び、新たな階段を作ることではないだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

『パシフィック・リム』に犬が出てくるのはなぜか  ―記憶の森を旅する映画―


 ジェイムズ・ヒルトンの『心の旅路』という小説をずいぶん昔に読んだ。同題の有名な映画の原作だ。私の子供の頃の新聞や雑誌では、「記憶喪失」の話題にからめて「心の旅路」という言葉が代名詞のように使われていたほどだ。映画自体は見たことがなく、予備知識なしで小説を読んだのだが、一番最後の頁を読んで雷に打たれたようになった。
 
 「なにィィイ?!」
 
 ちなみに映画『心の旅路』も後に見たが、映画は原作を根本的に組み替えていて全く話の構造が違うので、中盤でこの仕掛けがわかってしまう。原作を読まれる方は、事前に絶対に映画を見ないことをおすすめする。
 『パシフィック・リム』という映画をどう受け止めたか。一言で言うなら、『心の旅路』で受けた衝撃にとても似ている感じがした。ただそれは、ラストに仕掛けがあるという意味ではない。『パシフィック・リム』初見から、「なにィィイ?!」に至るまでは2週間ほどもかかった。我ながら鈍感にもほどがあるが、この映画と出会ってそれを反芻し、はたと気付いたときの衝撃が、まさに『心の旅路』のあのラストだった。見ていたのに、見えていなかった。
 
【1】初見時の印象
 
 冒頭、最初の怪獣出現のカットは本当に素晴しかった。10秒にも満たないカットだが、「我々の現実世界」に巨大な怪獣が現われる、それを強烈な実感で見せてくれた。1フレームごとに見ていくと、最初の方は「実感を伴った普通の風景」の背景に怪獣が見えている。われわれ観客のいる場所は、金門橋の上に立っている人間の視点だ。目の前に停車している車両も現実感満点だ。ただ、左に見えるパトカーのランプ、そして橋の上にずらりと車両が停車してドアは開いたままになっているのが、何らかの事件を感じさせる。そして怪獣が襲い掛かってくると、怪獣の右手が橋の向こうの方にのしかかり、すぐ近くに左手が迫る。そして、すぐ目の前の現実感溢れる車両が怪獣の爪で粉砕される。それだけではない。磐石に思われた足元の巨大な橋全体が怪獣の力できしみ、ゆらぎ、傾いていく。
 そして続くカットでは見上げる構図で巨大な怪獣、崩れる橋、こちらめがけて落ちてくる車両。IMAX3Dという上映形式も相俟って、まさに「巨大怪獣を実際にこの目で間近に見る」というありえない体験をさせてくれた。
 また、中盤の東京襲撃のシークエンスも素晴しかった。東京のビル街の路上の視点に観客は立たされる。そして上空を突っ切って飛んでいくジェット戦闘機。その飛んで行く先には巨大な影、途方もない大怪獣だ。ビルを突き崩しながら覆いかぶさるような圧倒的迫力で巨大な怪獣が迫ってくる。これは私が幼稚園児のときに劇場で見た『空飛ぶゆうれい船』中盤のゴーレム出現を彷彿とさせる。『空飛ぶゆうれい船』では、まずジェット戦闘機、次いで戦車が日常のビル街に現われ、われわれ観客は路上でそれを仰ぎ見ている。戦車が攻撃する先に巨大な手、そしてゴーレムの全身が現われる。『パシフィック・リム』でも戦闘機の攻撃する先にまず見えてくるのは巨大な手だ。半世紀近くを経て、遂に私は『空飛ぶゆうれい船』の世界に実際に入り込むことができたのだ。IMAX3Dは、自分と怪獣が共有している巨大な空間を吹き抜ける風の息吹を感じさせてくれた。本当に驚いた。
 だが残念ながら、それだけだった。イェーガーと怪獣の戦いになると、ここまで書いてきたような魅力は消え失せてしまう。要は、自分が巨大ロボットと同化して巨大な存在となり、よくできたセットで怪獣とひたすら戦うような感覚を味わう映画になってしまうのだ。勿論それはそれで楽しい。だが、サンフランシスコと東京のシークエンスを見せられた身としては、それがひたすら残念だった。怪獣自体の魅力も、最初のカテゴリー3の怪獣たちは決して悪くないと感じるが、カテゴリー4、5と進むにつれて、自分の趣味には合わない類のパワフルなケダモノになっていってしまう。細かいところを見ていけば、ナイフヘッドから船を救うところは、『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』の冒頭の戦いの如く、船上の人物の不安な視点からの迫力はそこそこ魅力的だった。また、中盤の「巨大な市街の中のある地点の閉鎖された空間にいる特定の人物を巨大な怪獣が見つけ出して迫ってくる」という怖いシチュエーションは、『空飛ぶゆうれい船』で怪物がホールの中の黒汐会長を見つけ出して捕えてしまう怖さに通じるし、両者には「壁(天井)を突き破る巨大な爪」という共通する恐怖のイメージもある。他にもそういう細かいところではもちろん色々と楽しめるのだが、総合的には「勿体なくて残念」だというのが率直な印象だった。
 ただ、見終えて帰路を歩く途上で考えたのは、これは「ギレルモ・デル・トロ監督と自分の趣味の違い」でしかないということだ。監督が「無能」だとか、「分かっていない」とか、「センスが悪い」とか、そういう感想は一切抱かなかった。つまり「私の見たい映画」というベクトルは、私がこれまでの人生で出会ってきた色々なものの積み重ねの上にたどり着いたものだ。同様に、デル・トロ監督も日本からメキシコに届いたさまざまな怪獣映画やアニメは勿論だが、人生の上にいろいろなものを積み上げた上にデル・トロ監督のパーソナリティが成り立っている。だから、その違いだけが「私がこの映画の85%を気に入らない原因」なのだ。
 実はそれは私にとっては凄いことだった。正直、私は「日本の怪獣映画やアニメーションを好きなマニア達が作った映画」の殆どが大嫌いだ。それらを見ると、あまりの拙さに絶句する。心の中に湧いてくるのは「怒り」「哀しみ」「軽蔑」「絶望」だ。「好きこそ物の上手なれ」という言葉を持ち出す人がいるが、「ゴッホの絵が好き」かどうかと、「ゴッホになれる」かどうかは全く別の話だ。そして、ゴッホは滅多にいない。
 私はデル・トロ監督が『パシフィック・リム』で成し遂げた仕事に敬意を表する。この映画の中には、日本の特撮映画やアニメーションのいろいろな要素がたくさん見えるけれども、それらは「安易な引用」とは程遠いものだ。マニアが作る映画によくあるような「オマージュを切り貼りしたちぐはぐなパッチワーク」ではなく、デル・トロ監督がたくさんの作品を受け止めて十二分に消化して吸収して分解して養分にして己の一部としたものが、新たな『パシフィック・リム』という作品の血や肉として新しい命を得ている、それが結論だった。
 
【2】反芻、そして再見
 
 『パシフィック・リム』に対する感想をあちこち覗いてみると、実に興味深かった。日本の特撮映画(及びテレビ作品)の色々な断片が取り込まれているのは私にもある程度見えるが、ほかにもいわゆるロボットアニメの領域からも様々な題名が挙げられていて、しかもひとつに偏らずに人それぞれ挙げる作品がばらばらなのだった。『鉄人28号』『マジンガーZ』『鋼鉄ジーグ』『ゲッターロボ』『マグネロボ ガ・キーン』『ジャンボーグA』『機甲界ガリアン』『機動警察パトレイバー』『メトロイド』『神魂合体ゴーダンナー!!』、その他にも色々あった。私が良く知らない作品の方が多いが、それぞれの概要を覗いてみると、たしかに頷けるものばかりだ。『メトロイド』といわれればジプシー・デンジャーは正にそれだと感じるし、『ゴーダンナー』だといわれてみれば物語や設定は驚くほど似ている。
 もうひとつの興味深い点は、映画を見た時には心にひっかかる感じがして、時間が経ってから、「ああ、あれだ」と気付いたという意見が少なからずあったことだ。私も数日後にふと、「ああ、本体を敵の本拠に突っ込ませて吹っ飛ばして、操縦者は脱出カプセルで間一髪脱出するというのは、『空飛ぶゆうれい船』そのままだなあ」と気付いた。しかも操縦者が若い男女のペアなのもそのままだ。言われてみれば明々白々なことにすぐ気がつかないのは、膨大な作品の無数の要素が幾重にも重ねられて複雑に組み合わされているからだ。しかも、『パシフィック・リム』という映画の仕上がりはそういう複雑な組み上げプロセスを感じさせない、一見すごくシンプルに見えるほどの統一感に溢れた完成度の高い独立した作品になっている。
 ビッグ・バジェットの超大作として、「日本の特撮映画やロボットアニメを知っているか否かにかかわりなく観客が皆楽しめる映画」としての水準にきちんと到達した一見シンプルな作品でありながら、『空飛ぶゆうれい船』が好きな私が見ればそういう景色が見えるし、『ジャンボーグA』を好きな人が見ればまた違った景色が見えるのだろう。見る角度によって違った景色が見える万華鏡のようでもある。実に優れた映画だと思えてきた

 そして初見の5日後に2回目のIMAX3Dを鑑賞。すでに内容は把握しており、また自分の考え方も整理済みだったから、無用な一喜一憂抜きに、素直に見ることができた。自分の趣味に合うところも合わないところも、映画の全てをとても楽しめたと思う。 

 
【3】迷いの森を抜けて
 
 8月の半ばの暑い時期に2回観て、頭もぼーっとしていたが、涼しくなった翌週あたりにまた反芻を始めた。
「『空飛ぶゆうれい船』に似てるといっても、ゆうれい船は出てこないし、空中でのミサイルの撃ち合いもないしねえ…。」
「主人公のパートナーの犬もいないし…。……犬? 犬! 犬! いたよ! いたいた!」
そう、主人公のパートナーではないが犬が出ていた。絶望的な状況下で我々の心を温めてくれる犬だ。そして映画の犬の場面を思い返し始めたとき、飼っている親子の父親が右腕を吊っていたのを思い出した。
 
「なにィィイ?!」
 
そう。『空飛ぶゆうれい船』のこの写真を見てほしい。
f:id:latitudezero:20130830202156j:plain

「父親が敵の攻撃で負傷し右腕を吊っている。代わりに息子が戦うのだが、その息子に愛犬がいる」
このトライアングルは『空飛ぶゆうれい船』と『パシフィック・リム』で全く共通している。2回見ても翌週までこれに気付かなかったとは…。なんという阿呆だ私は。見ていたのに見えていなかった。
 先に「初見時の印象」のところで、『空飛ぶゆうれい船』で怪物がホールの中の黒汐会長を見つけ出して捕えてしまう怖さのことを書いた。黒汐会長は怪物が吐く溶解液で溶かされてしまう。…溶解液!! そう、『パシフィック・リム』で博士を見つけ出した怪獣オオタチは、口から溶解液を吐いていた。オオタチは博士を溶解液で溶かすつもりだったんですよ! あれはボア・ジュースの原液だったんですよ!(文体が滅茶苦茶になってきましたがいいんですよ!)
 もう、気付き始めるといくらでも出てくる。
 ゆうれい船が出てこないと書いたが、考えたらちゃんと出ていた。船の形をしていなかっただけなのだ。ジプシー・デンジャーがそれだ。『空飛ぶゆうれい船』では、ゆうれい船は「原子炉を搭載」していて、「言葉で命令するとコンピューターがそれを解読して自動的に操縦する」機能がある。そして、敵の本拠地である海底へ向けて、主人公の少年と少女が2人で操縦して進む。作戦は、「敵の本拠地へ突入してゆうれい船の原子炉を核爆発させる」(!)ことだ。しかも少女は両親をボアーに殺されて、ゆうれい船の船長に育てられたのだという。そして最後はゆうれい船を敵の本拠へ突入させ、主人公たちは脱出カプセルで海上へ逃れる。
 以上、、まるで『パシフィック・リム』の物語だ。なんということだ。これだけ明白だったのに。
 また驚いたのは、ゆうれい船に搭載された磁力砲の説明だ。「相手のコンピューターの記憶装置を混乱させる。それでミサイルなどは使用不能になるんだ」(劇中の台詞そのまま)。…そう、『パシフィック・リム』でエウレカがミサイルを発射しようとした時にレザーバックが使った新兵器ですよ! ちなみにエウレカの胸が開いてミサイルを発射するのは、『空飛ぶゆうれい船』のゴーレムのミサイルそのままですよ!
 『空飛ぶゆうれい船』の黒汐会長は、裏でボアーと結託してゴーレムを操り、それに対抗するための軍需産業であくどく儲けていた。『パシフィック・リム』ではハンニバル・チャウが裏で軍隊に資金提供する代わりに怪獣の死体であくどく儲けている。しかも怪獣ともドリフトで接点がある。ハンニバルはまさに黒汐の角度を変化させたキャラクターだ。黒汐は怪物に捕らえられ溶かされたが、ハンニバルオオタチの子供に追いかけられてパクンとやられている…。
 
 おお、ギレルモ・デル・トロ監督よ。あなたはどれだけ『空飛ぶゆうれい船』が好きなんだ!
 負けた。まさか海のかなたで『空飛ぶゆうれい船』を見た人に負けるとは思わなかった。
 しかも負けて嬉しいのだ。これほどまでに『空飛ぶゆうれい船』を好きな人がいて本当に嬉しい。
 『パシフィック・リム』を最初に見たとき、心の奥底に手を入れられるような不思議な感覚があったが、そうじゃなくて、デル・トロ監督の豊穣な精神世界の中に入り込んでいたのだ。私は釈迦の手の上で踊っているサルだった。
 
 そう、やっと分かった。なぜ監督がこの映画に「ドリフト」という概念を持ち込んだかが。この映画は、デル・トロ監督の精神世界とドリフトできるイェーガーなのだ。
 この文章を今読んでいる貴方は、たぶん子供の頃から怪獣映画やロボットアニメが好きな方だと思う。そして、子供から大人になる過程でいわれたのではないか? 幼稚なものは卒業しろと。貴方は「幼稚だとは思っていない」が、その「魅力」を「言葉」でうまく説明できない。それで、「裏にかくれた深遠なテーマがある」とか、「大人の鑑賞に耐えるSF」とか、相手を調伏できそうな「言葉」を探しているうちに、自分でもその「言葉」を自己催眠で信じてしまってはいないだろうか。
 デル・トロ監督は、この作品を日本に対するラブレターだと発言している。また別のところでは、「僕が好きなものすべてに対するラブレターだ」とも。監督は、自らが受け止めた日本の特撮映画やロボットアニメ、そのほかにもたくさんの映画や小説や、はたまたルチャ・リブレに至るまで、そうした膨大な作品の「魅力」をひきだして、「言葉に変換」するのではなく、そのまま『パシフィック・リム』という映画に凝縮してくれたのだ。
 うろ覚えだが、ハンセン親子が劇中で言っていた。ドリフトしているから、言葉を使わなくても伝わってる、判っているよと。『パシフィック・リム』という映画を通じてデル・トロ監督の精神世界とドリフトすれば、言葉を介することなしに、共通して好きな作品の「魅力」とそれに対する「喜び」を分かち合える。
 先に書いたことの一部繰り返しになるが、『パシフィック・リム』は、ビッグ・バジェットの超大作として、多くの人が無駄な予備知識なしに十二分に楽しめる健全な娯楽映画でありながら、日本の怪獣映画やアニメーションが好きな人ひとりひとりには、心の奥底の微妙なひだまで届く繊細で個人的な映画でもある。しかもその届き方はひとりひとり違う。『空飛ぶゆうれい船』が大好きな私にはその部分が強く届くけれども、『サンダ対ガイラ』が大好きな人や『ガ・キーン』が大好きな人、皆それぞれ違う形で深く届く作品ではないかと思う。しかもその個人的な部分は、「隠されている」のではなく、多くの名作の「魅力」そのものがちゃんと表現されている。特定の作品名が見えにくいのは、それぞれの「魅力」を綺麗に解きほぐしたうえで見事に再構成されているからこそだ。『空飛ぶゆうれい船』や『サンダ対ガイラ』や『ガ・キーン』や、そうしたものの素晴しさが、幅広く誰にでも受け止めてもらえる形でここに甦っているのだ。そしてそのことこそが、いまや私が『パシフィック・リム』をとてつもなく凄く、とてつもなく素晴しい作品だと思っている理由でもある。
 
【4】蛇足だが大切なこと
 
 以上、文章としてはかなりガタガタになってしまったが、綺麗に整頓しようとすると、伝えたいことの形が変ってしまいそうなので、あえてそのままの形で皆さんにお読みいただくことにした次第。大変読みにくいことをお詫びする。
 
 最後にもうひとつだけ、全くの蛇足ではあるが私個人にとっては大切なことを書いておきたい。
 『空飛ぶゆうれい船』を劇場で見たのは幼稚園児の時だ。次はその数年後のテレビ放映で、その後はしばらく見る機会がなかった。だから、当時見た記憶そのものには曖昧なところが多く、現在の私の脳内にあるイメージや感想は、ずっと後年の上映会やレーザーディスク等で細かく補完されたものだ。だが、封切時の劇場の暗闇の中で見たあの時の記憶でとても強く残っているところがある。それは、ボアー本拠地へゆうれい船が突入していくクライマックスだ。暗闇の中で私は、完全に主人公の少年・隼人と一体化していた。怪物たちを操っているボアーとはどんな奴なのか。あの本拠地の中はどうなっているのか。敵の中枢の巨大なゲートはすこしづつ閉まっていくが、ゆうれい船はぐんぐん近づいていく。そこへ突入する恐ろしさを感じながらも、遂に敵の中枢へきたという興奮も味わっていた。これが90分の長篇動画なら、その先もあっただろうが、『空飛ぶゆうれい船』は60分の中篇だ。敵のゲートが閉まるギリギリでゆうれい船を突入させて、隼人たちはゲート突入前にゆうれい船から脱出カプセルで海上へ逃れた。私は恐ろしいところへ突入しなくてすんだ安堵を強く感じながらも、「あの中はどうなっていたのだろう」と思い、それがずっと気になっていた。
 
 もしかしたら、ギレルモ・デル・トロ監督も同じことを考えたのではないか?
 
 それに思い当たったのは『パシフィック・リム』を2回目に鑑賞した時、1回目で気付かなかったあるものを見つけたからだ。ゆうれい船が突入しようとしたボアーの星型のゲートとそっくりなものが、時空トンネルの先の敵の本拠地にもあったのだ! 5枚弁の星型ゲートにそっくりな6枚弁のゲートだ。画面のめまぐるしさで1回目は気付かず見逃していた。そのゲートの先には、敵の壮大な基地、そして敵宇宙人そのものの姿も!
 そう、『パシフィック・リム』は、遥か昔に幼稚園児の私が映画館の暗闇の中で「怪物たちを操っているボアーとはどんな奴なのか。あの本拠地の中はどうなっているのか」と感じ、今に至るまで引きずっていた悶々たる思いへ答えるプレゼントでもあったのだ。かつて『未知との遭遇』にUFOの中を見せてくれる特別篇というのがあったが、これは『空飛ぶゆうれい船』特別篇でもあったのだ!
 
 『パシフィック・リム』は私の心の奥の奥に秘めた思いにすら触れてくる素晴しい作品だった。いや、「だった」ではない。私にとって、『パシフィック・リム』は現在進行形だ。初見の時には15%しか好きではなかった映画が、どんどん好きになりつつある。怪獣の趣味の違いは簡単には解消できないかもしれないが、デル・トロ監督が好きなものなら、自分も好きになれるのではないだろうか。今はそう思っている。残念ながらIMAX3D上映は終わってしまったようだが、2Dでまた監督とドリフトするつもりだ。次はもっと高いシンクロ率になるはずだ。
 
Elbow Rocket !
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

平山亨さんのこと

 平山亨さんに初めてお会いしたのは、私がまだ中学生だった昭和53年でした。とある縁があって同じ年頃の友人たちと一緒にお目にかかる機会があり、東映本社の喫茶室で色々なお話を聞かせていただいて、そのお人柄に魅了されてしまいました。子供の頃から夢中になって見ていた『悪魔くん』や『キャプテンウルトラ』、その他多くの東映の子供番組を手掛けられてきた方だというのは知っていたものの、その頃はまだ「宇宙船」のようなファン向けの雑誌なども存在しておらず、詳しい予備知識は何もないままに足を運んだのですが、身にまとった陽性な雰囲気と、忘れられない魅力的な笑顔、そして熱のこもった話術に引き込まれました。まさに太陽のような人でした。
 その当時、平山さんは東映テレビ事業部テレビ企画営業第二部長というお立場で、担当作品としては『スパイダーマン』や『宇宙からのメッセージ 銀河大戦』が放映されており、大変お忙しかったはずです。今思い返すとファンの中学生がのこのこと会社へ遊びに行くなど迷惑以外の何物でもなかったのですが、色々と親切にしてくださいました。大泉撮影所の東映映像の方をご紹介いただいたので、その縁で撮影所に足を踏み入れることも出来るようになり、『スパイダーマン』の撮影を見学させていただいたり、「整理を手伝う」という名目で古い造形物の倉庫に入れてもらったりと、「夢の工場」で働く方々の大変さを垣間見ることも出来ました。撮影所の入り口でばったり平山さんと出くわすこともありましたが、こちらが後を追って東映映像へ入ったらもう姿が見えなかったり、とにかくお忙しくあちこち動かれていたという印象があります。
 昭和54年になると、キングレコードから発売された『キャプテンウルトラ』のLPに平山さんの談話が掲載されたり、朝日ソノラマが出したムック「素晴しき特撮映像の世界」では、座談会出席のみならず掲載された漫画にも登場したりと、平山亨さんという方の人物像が色々な形で紹介されるようになり、それをとても嬉しく感じた記憶があります。こうしたレコードやムックは、私よりもずっと上の世代のファンであってしかも出版業界で活躍するプロの方々が手掛けられたものであり、翌昭和55年にはファン向けの雑誌「季刊宇宙船」が創刊されて、平山さんや、平山さんが手掛けられた作品にもより光が当るようになりました。
 その頃は私も高校生になっていましたが、この昭和55年頃はちょうどその高校生くらいの年代のファンの横のつながりが広がってきた時期でもあり、同人で会を作って研究同人誌を発行する人も出てきました。そうした流れの中で、私も『キャプテンウルトラ』の同人誌を是非とも作りたいと考えるようになりました。物心つき始めた頃に出会った大好きな作品でしたが、東京では昭和48年の再放送が最後だったため、ビデオでの録画なども調達できず、詳しい内容すら確認できない幻の作品となっていました。
 資料も何もありませんでしたから、正直なところ、平山さんのご協力をいただけることを当てにした同人誌企画でした。しかし平山さんは大変お忙しい方です。厚かましいお願いをどのように切り出すか。口下手で引っ込み思案の私があれこれと考えているうちに一日一日と時間が過ぎていきました。そんなことをやっているうちに、いつの間にか友人から話を伝え聞いた平山さんがすでに台本と企画書を撮影所まで持ってきてくださっていると知った時は驚きました。ただの一ファンである私に、その貴重な資料を躊躇なくお貸しくださったのです。しかしもっと驚いたのはその後でした。平山さんは他に資料はお持ちではないので「いい人を紹介するから」とのことで、そのためにわざわざ食事の席を設けてくださり、平山さんの作品にお詳しく、当時すでにプロの編集者・執筆者として業界で活躍されていたお二人をご紹介くださったのです。私にとっては研究者としての大先輩にあたる方々です。私は平山さんにいただいた過分のご厚情を心底有難く思いました。
 しかし、私はこの頃のことを思い出すたびに、胸がすこし痛くなります。思慮に欠けた出来の悪い高校生だった私は、平山さんのしてくださったことがいかに重いかということを本当には理解出来ていなかったと感じるからです。自分が社会に出て年を重ねるにつれ、それがだんだんとわかるようになりました。そして、昨年刊行された平山さんの著書『泣き虫プロデューサーの遺言状~TVヒーローと歩んだ50年~』(講談社)を読んで、さらに胸が痛くなりました。昭和50年代の半ばは、同書第6章「管理職へ」にあたる時期です。そこには、当時の平山さんがいかに時間に追われ飛びまわっていたか、その片鱗を伺わせることが色々と書かれていました。
 私が中学生の頃に初めて平山さんにお会いした頃の肩書は「テレビ企画営業第二部長」と聞いていましたが、同人誌へのご協力を仰いだ際に改めて頂いた名刺にはその下に「代理」の文字がついていました。当時は「おや?」と思っただけでしたが、『泣き虫プロデューサーの遺言状』を読んで、その理由を知りました。部長職は東映本社で半日を費やして行われる全体会議などに出席しなければならず、現場をあちこち飛びまわる平山さんにとっては無駄な時間でしかないので、昭和54年の段階で部長を退かれていたのでした。また、平山さんは渡邊亮徳さんから「飯を無駄に食うな」と教わり、代理店や局の人と食事をしてコミュニケーションを図るようにとも言われていたそうですが、これについても「でも、私は、飯に1時間もかけていられない。地下のカレー屋で流し込むと5分もかからず、仕事に戻れる」と同書にお書きになっていました。
 代理店の人と1時間食事するのさえ惜しいほどにお忙しく働かれていた平山さんが、私に先輩方を紹介してくださるために食事の席を設けてくださり、時間をかけて色々な話をしてくださった、それを思うと今も胸が苦しくなります。『キャプテンウルトラ』に関するインタヴューをさせていただいた際も、平山さんはいつもあちこち飛びまわっておられるので、携帯電話などない時代ゆえに何日も連絡がつかず、ようやく電話がつながって約束をいただいた日もお仕事が押していました。予定より数時間遅れでインタビューを開始したのですが、一日のお疲れがたまっていてしかるべき時間だったにもかかわらず、嫌なお顔ひとつされることなく、にこやかにエネルギッシュに、色々と興味深いお話を聞かせてくださいました。本当に申し訳なく思います。
 『キャプテンウルトラ』の同人誌は1年がかりで翌昭和56年に完成し、平山さんに直接手渡ししてお礼を申しあげることができましたが、私が大学へ進学した後は撮影所へ足を運ぶのが難しくなってしまい、以後殆どお目にかかる機会はありませんでした。
 ここに書いたのは、私の個人的な、小さな小さなお話です。ずっと後になって、平山さんを慕って訪れたファンの中学生や高校生が少なからずいたことや、そのひとりひとりに対して平山さんがとても親切にされていたという話を聞きました。また、映画の道を志して平山さんを頼ってきた方にも、親身になって応対されていたと聞きます。私はそうした大勢のはじっこのひとりに過ぎませんが、そうした話を聞けば聞くほど、平山さんがなさってきたことの大きさに頭が下がるばかりです。平山亨プロデューサーは、数え切れないほどたくさんの魅力的な作品を生み出してこられ、その足跡は今や巨大な山脈として聳えていますが、その根底には平山亨さんという「人間」の素晴しさがあったのだと思います。

 大切な恩人である平山亨さんの訃報に接し、私はいまだに心の整理がつきません。追悼の言葉も何を書くべきか、空をつかむのみでした。今はただ、心からご冥福をお祈りするばかりです。

 

鈴 木 宣 孝